正直と自立

人間には感情というものと理性というものがあると言われます。そしてそのバランスが調和していくことで穏やかで豊かな一つの人格が形成されていくように思います。

しかし実際は頭で考えているようにはいかないもので、喜怒哀楽というものもその時々の自分の感情の波によって大きく左右されていくものです。時として、それが親子であったり、兄弟、その他、身近な関係であればあるほどに感情が起伏してしまい衝突してしまうものです。

例えば、親子であれば子どもは親に嫌われたくないと潜在意識の中で思っています。これは子どもは親に嫌われれば生きてはいけず、無意識にも親に気に入られたいと思っている感情のフィルターが通っているからです。そして親の方はどうかというと、子どもは自分を好きでいて当たり前だと潜在意識の中で思っています。これも、生存本能であり自分の子孫を残していくための感情のフィルターが通っているともいえます。

こうやって親子間というものは、互いの感情のフィルターがあるのだから気にしていないつもりであっても意識の深層にはその感情のフィルターが通ってしまいギクシャクしたりもするものです。感情のフィルターは、あの心理学で有名な「ヤマアラシのジレンマ」の針のようなもので細な衝突を繰り返しながら適度な距離感を維持していくのもであろうと思います。

しかし、生長が進み思春期や反抗期になって共に親子に自立という時機を迎えます。

この時機に、そのフィルターを超えて自分らしく生きていこう、また互いに人格を持った社会の一員として認め合おうという機会が生まれます。そうやって、親子間だけではなく社会間での関係性を結び直すことで互いに信頼や尊敬といったさらなる改善が生まれそれを自立というのではないかと私は思います。

この互いへの自立というものには、感情の外に理性が必要になるように思います。

それを私は自律というのではないかと思うのです。

感情のフィルターがあったにせよ、それがあることは生存本能ですから取り除くことはできません。取り除いてしまえば逆に大変冷酷な関係になりつながりも失ってしまうからです。感情だけではだめだし、感情を抜いてしまうこともだめでそこに理性とのバランスが必要になると思うのです。

理性とは、自律のことで自分が自分で厳しく自分を正しい方へと向ける力であろうと思います。

私は、感情だけでぶつかる人たちの関係を修羅場と呼びます。そしてちゃんと理性を交えて正しい方へと互いに対話していくことを正念場と呼びます。この正念場というものは、仏陀の八正道でも言われますが、正見、正 思惟、正語、正業、正命、正精進、正念および正定の8つの正しいを実践するということです。

人間は、ややもするとこの感情がゆえに悲惨なことを体験したり、愛憎から互いを深く傷つけあったりしていくものだと思います。他人を愛すがゆえに、情深きゆえに、人間関係では常に苦楽を通して学びを続けていくように思います。それもまた人間が生活するということの根本だからです。

だからこそそうやってひとつひとつ自律して人格を形成していくことで、真の自立にもまた到達していくようにも思うのです。今のようなつながりが希薄な時代は、より一層、正直に生きていく必要があるように思います。

それは感情を含め理性も容れるといった日々の体験への正対と実践を行うことです。

人生は常に正念場。

正念場だと思って、正直で在りたいと思う自分のままに新たなスタートを切りたいと思います。