正心正意

日々に様々な出来事が起きる中で分からないことばかりが続きます。

そうして分かろうとするということと、どのような意味があるのかを同時に取り組む中で学問は深くなりまた楽しくなるものであろうと思います。しかし分からないということは、その分からない状態を解消しようと人は悩み迷い探すように思います。

何かのなくした欠片を探すように、人はそのあるはずだと思っているものを探す生きもののように思います。人生とはひょっとすると、そういう自らの欠片を探し求めていくものかもしれません。

何かの意味があると思う心には、どこか自分を超えた存在があってそこに導かれているという感覚や教えが入っているという心の世界があります。

目に見えるものと目には見えないものがあり、両面を照らして中間に合わせて観た時に、ああ、こういう意味があったのかと感じるのが中庸ではないかと思うのです。それにはバランスが必用で、どちらかに偏らないようにと精進しないといけません。

しかし今の時代は情報化社会で、すぐに手を伸ばせば様々な書籍はすぐに購入でき、インターネットを使えば瞬時に誰かの過去の出来事や情報が入手できるようになりました。しかしそれで知識が先に入っても、それを真心で実践していなければやはり意味づけしていくことはできないように思います。

だからこそ妄想に流されないように一つ一つの出来事に心を籠めて本質的に取り組むという丁寧な日々を送ることのように思います。自らの人生を充実させていくというのは、その両輪を自らで助け自らで廻して愚直に歩み道を往くことかもしれません。

そしてそれは真心を尽くしていく、そして感情を澄ませていくことなのかもしれません。
此処に来て、感情というものを素通りできないことを学び直しています。

最後に中庸にこうあります。

「唯天下の至誠のみ、能く其の性を盡くすことを為す。」

自らの正心正意、つまり心と感情の素直な実践、その誠心誠意こそが中庸であると。

この意味をもう一度、求め直していこうと思います。