個性というものを考えていくのに、その人の天性や天真というものがあります。
一人一人の顔が違うように、それぞれに与えられた個性や能力は別個のものです。それをどう活かすのかはそれぞれの人生の課題ではありますが、それがどのような時に発揮できないかということを考えてみます。
人は自分の持っている徳性というものを自らで否定することが多いように思います。これは今の社会が、競争社会であり画一的であるからその刷り込みが大きいように思うのです。
自分は自分のままでいいと思えないのは、人格や徳性のことを認めてもらい難い評価といった価値観が存在しているからかもしれません。物のように人を評価するのではなく、本来の人間の絶対的な評価が根底にあっての表面の違いということを知れば、異なるということの本質が理解できるからのように思います。
自分は変えなくてもいいけれど、考え方は変えないといけないという言い方があります。
これは自分の持って生まれた天真や天性はそのままに、生き方や在り方の方は正しくしていく必要があるという意味です。しかし蓋をあけてみると、実際には誰かと比べることで天真や天性を否定されていると実感してしまい、自分が善くないのだとすぐに自己否定をしてしまうことがあります。
元々の価値観に、誰かだけが正しいとか、世間の価値観に従うことが正しいなど何かと比べてしか自分というものを見ないという考え方があるから余計に修養による自己批判ではなく単なる比較の自己否定に入ってしまうのかもしれません。
本来、人間は自分を変えることができる部分とは考え方のところや生き方のところだけです。持って生まれた天真や天性はどうにも変えようがありません。それが個性であり、それが本性、ありのままの自然の姿そのものであるからです。
それを活かすためには、自分の持って生まれた天分を信じる必要があるように思います。そしてそれは自分はそのままでいいけれど、正しいことに気づき、直し、丹誠を籠めて実践を積み上げていく中で生き方を修めることのように思います。
そして同時に、自らの天分を社会に役立てるために長所を伸ばしていくことのように思います。自分がどんなものを天から与えられているのか、それは自分が大好きなことをやるときに観えてくるように思います。好きを遣り切ったならば、その体験を通じて誰かの御役に立てるからです。
これは子どもたちが私たちに生き方を教えてくれるように思います。子どもは天真爛漫で無邪気、無垢で、自然で素直な姿であろうと思います。
社会で自分の長所をどのように貢献に向けるのか、そして比較しないところで天真を活かすのか、それは天真学問のようにあるがままの自分を受け容れつつ同時に正しい生き方を学び続けることの集積のように思います。
日々に天から拝命した自分に感謝し、善転の学びを深めていきたいと思います。