先日、共に生活をしている烏骨鶏のことである方と話をする機会がありました。
特に悪気があるわけではなく、「鶏は1年半くらい卵を産ませたら肉が固くならないうちに食肉へと加工し販売するというサイクルでやるといい、なので早めに殺処分して次の鶏を飼った方が良い」と勧められました。鶏を何のために飼うのかで話の本質も変わりますから、その考え方も一理あると思いながら拝聴していました。
ただその時は、私には生活の一部になっている烏骨鶏を簡単にはそうできないと返答した後、少しこれを深めて考えてみることにしてみました。
もともと私たちは何かを食べることで今まで生きながらえてきました。そこには常に犠牲は隣同士で、食べるという行為を通して分け合い助け合い共に生きていくのが自然です。今回の鶏でいえば、大切な卵を分けてくれてそれを食べることで子どもや病人などが栄養をつけて元気に生きていく滋養をつけます。
ニワトリというものは、人間にとってとても都合が良いから共にいることにしたのですがこちらの思い通りにしたわけではなくニワトリにも意思があって共にすることになっていると思うのです。長くは縄文時代の遺跡からも、鶏と共に暮らしてきた形跡が残っています。
私たちはニワトリを助け、そしてニワトリに援けられた御蔭で今も生活の中に欠かせない存在としてあるように思うのです。そうやって共にしてきた期間があるから、今の私たちと共に暮らしていくことを決めたように思います。
今の暮らしの中で人間とつながって生きてきた仲間たちは共感しているからといえます。そこにはただの物の一つや、食べ物というものではなく、その生き方や在り方、その何かしらの恩恵に感謝し共感するから一緒になっているということです。
人間と今まで共にしてきた生きものたちや道具たちというものは、私たちの慈愛に応えて様々なことを援助してくれています、それはミニマムでいえば身近な菌類、そこから植物や虫たち、鳥たち、犬や牛、数えきれないほど長い年月を共にしてきた仲間たちです。
そういう仲間たちが過去に大変な時、辛い時に御互いに犠牲にし合いながらも共に生き抜いてきたからこそ今があるのだからその御恩を忘れないでいることが共感です。
共感は今の自分だけで考えているのではなく、今までの自分で考えることのように思います。この共感には、今までの関わりやつながりといった絆が入っているのです。
この共感を忘れないというのは、有難いという日常を生きる事のように思います。何でも人間都合で用がなくなれば捨てるという発想は自然の営みからも大いに外れていくように思います。そんな自然から離反した生き方では幸せを実感できないのもまた自然の一部としての人間の宿命だと思います。
常に今までも本当に有難うといった共感謝を忘れないで生きていくことを、次世代へも紡いでいきたいと思います。