代謝の働き~いのち全開~

昨日、今年の秋冬用の高菜漬けを木樽に無事に漬けこむことができました。

昨年から発酵をテーマに、自然から学び直していますが新しい発見が続いています。漬物というものは、色々な説がありますが縄文時代からあったとも言われます。平安時代に中国から他の技術も伝来し、また室町時代に聞香と共に種類も豊富に発展したと言われます。

もちろん保存食の位置づけもありましたが、昔は副菜として食卓に出て食べていたようです。漬物には食欲増進もありますが、もともと大量の菌が生きているままに食べるわけですからそれが体内で他の菌とあわさり身体の内部の代謝も促すように思います。

もともと乳酸というものは、菌が代謝をすることで発生するものです。つまりは私たち生命体の活動において生じるエネルギーが代謝ともいえます。動植物からあらゆる生命にいたるまで私たちは自然の中で活動していく中で様々なものを生み出していきます。

その生み出したものが、他のいのちの支えになっているともいえます。花であれば咲けば他の虫たちの食べものになり、虫の糞などもまた他の虫たちや微生物の食べものになります。

すべての生きものたちの食べものを創りだすために自分たちは活動しているとも言えるのです。これを代謝といい、代謝は活きている上で何よりも欠かせない大切な生命のバロメーターとも言えるのです。

代謝をよくしていくためには、より善く代謝したものを摂取していくことが大切です。加工食品では代謝したものをそのまま摂取できません。生きものは代謝を食べているとも言えるからです。

人間であれば、体内のあらゆるところに乳酸菌が存在しています。その乳酸菌を体内で活かすことで私たちは体温を上げて、より健康を維持できるようにしているのです。この菌との関わりは動物だけではなく、植物であれば木の根でも活躍してもらっているのです。

つまり菌の代謝がなければ私たちは存在していくこともできないとも言えるのです。そしてそれは人も全て全力で全生命を出し切るとき代謝があったと言えるのです。いのち全開に代謝を善くする人の傍では必ずその影響をうけて子どもたちも育つのです。より善く代謝することは、より善く万物を活かす存在になるということです。

まるで太陽や海の活動のように、その目には見えないいのちの存在を、太古の昔から気づき、それを生活に合致させてきたという先人の智慧には頭が下がる思いです。

今回の高菜漬けも二度漬けする際に高菜の隅々に乳酸発酵した香りと、その状態を確認できました。ここから樽の中で新たな個性を発揮していくのでしょう。自分と共に生きていく菌もまた、自分の性格にあわせて変化していくと思います。

目に見えない存在に感謝するとともに、その働きから学び実践していこうと思います。

自然人間観

家の身近なところを散策してみると様々な生きものたちが棲んでいるのに気づきます。

鳥で言えば、雀に鳩に鴉、その他にも水鳥から山鳥まで様々な鳥がやってきては生活しています。またその他には犬や猫、魚、虫、植物、目には見えないような小さなものまで含めれば本当に沢山の生きものたちが存在しているのです。

日ごろは人間中心に生きていれば気づかないだけで、それぞれの生きものはそれぞれにとても自由に活動しています。本来はそれを邪魔しないようにすることが私たちの生き方だったのかもしれません。しかし今は、人間都合でそこにいた生きものたちへ配慮せず、その生活圏を壊しているものが多くあります。

もちろん自然淘汰とかいう言葉でその環境に順応できるものが生き残るのかもしれませんが、急激な変化に対応出来ない生きものの方が多いように思います。今は時間をかけて周りの生きものの順応を思いやるようなことを行う暇もなく、早く早くと何でも急いで結果を求めます。

かつての私たちの先祖は、それぞれの生きものがバランスよく存在していることがもっとも調和であることを知っていました。和楽というように、最も和した状態こそがそれぞれに楽しく幸せであることを感覚的に掴んでいました。

何かの都合や誰かの都合を優先することで、和でも楽でもなくなっていきそこから不調和が発生し様々な問題を次々に巻き起こしていきます。しかし貨幣経済優先の社会では、その問題こそが次の経済を生み出していくために必要としたとも言えます。

人間の問題を解決するのと同時に、全体の問題を解決するという発想が本来は大事なのではないかと思います。そこには傲慢に人間都合でばかりを考えるのではなく、謙虚に自然全体の調和から考えてどうすべきかを話し合う必要があるように思います。

すべての生きものはそれぞれに自分の生を、また役目を全うしたいと思っています。それがどのようにしていけば実現するのか、それをよく考えていかなければなりません。

だからこそこれからの時代は、そういう自然観を持つ人たちが対話を通して人間を導いていくことが善いのかもしれません。しかしそれは自然観があるだけではなく、そこには人間観も備わっていなければ分かりあえることもありません。

次の成熟に必要なのは、有為無為の自然人間という道の体現者が世の中を導くのかもしれません。子どもたちにたくさんの体験をしていくことを通じて、今の時代の調和を探っていってほしいと思います。

尊い体験の今

苦楽について考える機会がありました。

人は、一般的には苦しいからこそ楽になりたいと思うものです。これは苦しいと偏ることで、もう一つの反対側の楽を想像して求めてしまうからとも言えます。逆に、いつも楽だけを求めていたらできるなら苦しみを避けて無難でいたいと思うのです。

しかし、人生は平等ですから誰にしろ苦難は訪れるし、快楽に酔うこともあるでしょう。そういうものに偏ることこそが真の苦しみを生み出していたりもするように思います。

人は、何かの苦しみを感謝に転じることができるならそれを楽しいという方へと考えることもできるように思います。例えば、何かの苦しみが訪れたとき楽をしようとするのではなく、苦しいけれど自分で遣り切って納得できる方が楽しいという選択をするとします。

すると、今まで苦しいと思っていたこともその御蔭で日々が充実するようになったとか、ただ諦めて我慢していた日々が御蔭で掛け替えのない一日に変わったとも言えるのではないかと思います。

人生というものを思う時、如何に素晴らしい体験と思い出ができたかということが重要ではないかと思います。それは死んだら何も持っては行けず、如何に一期一会の素晴らしい出会いを自らのご縁を通して体感しかたではないかとも思うのです。

必ず人生は死に向かって歩んでいくものですから、尊い体験をさせてもらっていているのが今であるというのは自明の理です。そうであるならば、もがくことも苦しむことで辛いこともその時は大変心労も重なりますが天からの贈り物と転じていけるかどうかに苦が本当に苦しいものになるか、楽が本当に楽しいものになるのかの分岐点になるように思います。

苦しいことも楽しいことも、幸せと思えるには尊い体験の今に丸ごと感謝することかもしれません。善いか悪いかは分かりませんし、これが何になるのかも知りません。過去がどうであったかもこの先がどうなるのかも天のみぞ知る境地です。

だからこそ、自分の道だと信じて歩んでいけることに感謝し続けていきたいと思います。

成長戦略

世間一般的に、人は競争することで成長するということを求めて勝つか負けるかという二択で考えているものです。しかし、勝つか負けるかというものを軸に物事を考えれば、勝てばいい、負ければよくないということになってしまいます。

これは何かと比較競争するときに用いる価値観ですが、そうなればどこかを基点にしてそこから下が負け組でそこから上が勝ち組であるという発想です。

その基点をどこに置くかで熾烈な戦いをさせようとする外部からの意図もそこにはあるものです。その競争を仕掛けたものがその競争の中で得たいメリットを享受できるからともいえます。もちろん、それを否定するわけではありませんがこれらのことは子どもの頃から遊びとして私たちの生活に根差しているものです。

しかしその遊びは、何を目的にしているか、何を目指しているかでまた変わってくることのように思います。遊びを競争するのも、遊びを協働するのも、良し悪しではなく、それが何のためにあるのかという判断基準が明確であるかどうかが大切なのです。

本来のどうあるべきかを考えてみると、もしも個々のやりたいこと、その使命を遂げさせたいとその人の幸福そのものに基点を置くならば勝つか負けるかではなく「成長」したかということになるように思います。

結果論として成長した証として勝つのですが失敗が悪いものにならないのです。失敗とは、何をすべきで何をすべきでないかを学ぶということです。そう考えてみると、体験や経験を通して人は学び、それは勝つことも負けることもすべて成長したということになればいいのです。

成長戦略というのは、成長することを優先するということでありそれに尽力し遣り切ることではじめてその結果としての勝利があるように思います。教える側や身近な周りの大人が何を目指すかで子どもも如実にその価値観がしみ込んでいくものです。

本来の生き方がどうであるか、何をすることがもっとも社会に貢献できるか、よくよく考えてみると成長を選ぶということが体験を学ぶことでありそれがこの世に生れ出てきた価値のように思います。

全ての植物も動物も昆虫も、勝ち負けをしているのではありません。

彼らはみんなそれぞれに成長しているだけなのです。
自然を見習い、真摯に生きて、尊い体験から真摯に学び、成長していきたいと思います。

自然通

自然を観る時に、自分の視点からと地球の視点からというものがあるように思います。

例えば、今日は晴れたとか明日は雨だとか、それは自分の視点です。地球で観れば、風の通りが少し変わっただけだったりします。他にも、乾いた枯れたではなく水の流れが変わった、地震があったではなく、土が動いているということなのです。

特に、ここ数年は目に見えるほどに急速な変化が地球に起きていて風の流れ、水の流れ、土の流れ、光の流れ、粒子の流れも少しずつ今までと大きくズレてきているように思います。もちろんこのズレてというのが自分の視点ですから、地球からすればバランスをとり修正をしていることになるのです。

動植物もその自然の風の通り道にあわせて、生活圏を移動しますし、水の流れに従って棲家も変わっていきます。私たち人間は、自然に合わせなくなったので異常気象だとかいいますが太古の昔から私たちは自然と共に移動してきたように思うのです。

人類が旅をするのは、私の仮説では自然が動いてきたからかもしれません。その中で、私たちは移動しながら生きて進化してきたように思います。そして気候が変わっていく中で、その場所に残るもの、その場所で生きるものたちがあったから多様化してきたように思うのです。

かつての文明も、住みやすかったところから自然の移動で住みにくくなったり住めなくなったりした場所もあります。それが海の中になってしまったり、高地になってしまったり、自然はいつも動いているからです。

自分の視点だけではなく、地球からの視点で観て私たちは地球が生きているから活かされるという大前提の中で在ることを忘れてはならないと思います。身体があって生きられるのと似ていて、生きているのではなく活かされているというのが本質なのです。

活かされているからこそ、先ほどの風を感じ、水と流れ、光を浴び、空気を味わい、土と親しむといった自然と共生している感覚を忘れないようにしていくことだと思います。そしてそこに自然の感謝の場所が存在するからのように思います。

よく自然の流れを観察し、自然の通りにバランス感覚を磨いていきたいと思います。

丸ごと愛する

先日、自己肯定感について話をする機会がありました。

一昔前までは、自己肯定感などという言葉はあまり聞かれない言葉だったと思います。最近では、よく教育の世界にいると自己肯定感がどうだという話題が出てくるようです。

これは何かと比較して不足を補っていくという強迫観念のようなものが存在しているのかもしれません。もともと唯一無二、たった一人、たった一度のその人という定義ではなく、あれもないこれもないと、こうあるべきという姿を叩きこまれると人は自分でいいと自分が感じられなくなるのかもしれません。

人を愛するということは、その人を丸ごと愛することであろうと思います。しかし、条件付きの欲望であったり、敷かれレールの中にいることが前提などと、世間のモノサシを優先すればその人はその人らしくいることを否定されていることになるように思います。

自分を愛するということは、自分は自分のままでいいということなのでしょう。

それには、まずそのものを丸ごと認め、丸ごと受け止め、丸ごと存在に感謝するというような有難い心を育てていく必要があるように思います。

自分のこれがいけないとか、これがダメだとか、そういうことを気にしていたらそのうちに他人のこともそういう風にしか見られなくなるものです。そういう自分がいるとして、それ以上にそのままでいいとか、善かったねとか、大丈夫と気楽に信じ切ってくれている存在に人は安心するのかもしれません。

自分自身も、安心する存在にたくさん救われています。それが何であろうが、今の自分が善い、このままで善い、今が何よりも善いと思えることが常に自分の存在を丸ごと実感できるものです。

自分のままがいいままに、そこは変えずに人生そのものは幸せを高めて福を広げていくために日々に自分の欲に打ち克ち精進していこうと思います。

心動

世話をするというのは、頭で行うものではなく心で行うものだとよく実感します。

例えば、植物の世話などもそうですが頭で分かった気になり世話をしたとしても実際はその生き物への配慮や心配りがなければ枯らせてしまうことがあるからです。自然界で生きていれば、自然循環の中で自らで自分の棲家を移動していきますので順応も進みます。

しかし人間都合で用意された環境、ベランダや室内などは植物に合わせてこちら側が接し方を変えなければ安心して見守ることができなくなります。それに多種多様に個性が異なり、寒暖差や水の吸収、その他、風通しまで思えばどの場所が最適なのかもその生きている生きものによって異なります。

適材適所というのは、本来はこちらが適材適所に配置するのではなく、適材適所になるように私たちの方が変化させていく必要があるからです。

そのためには、少し先の季節を先に見通し、どのように接するのかをいつも配慮していく必要があります。そしてこの見通しとは頭でできるものではなく、やはりそのもののいのちに寄り添ったり、そのものの発達を見守る自分の心の状態により立つのです。

見通しとは、そのものがどのようにしたいのかをよく観ることでそのもののが何をしたいのかに気づくことのように思います。つい自分の都合で物事を動かしたくなりますが、本来の自然の姿はそのものがやりたいと思っている環境を用意していくことだろうと思います。

植物が枯れるのもそうですが、ほんの少し長い期間、そこから離れるだけである種類によって過酷なことであったりします。その時は、誰かに頼んだりそのものが自立できるように日頃の関わりを改善していかないといけません。

育てるというのは、とても配慮が必用だと思います。それは、こちらの期待通りに育てようとするのではなく、そのものが育っていることに感謝する気持ちで接していなければおかしくなるのです。

当たり前ではなく、有難いと思えるときだけが心を配っています。
しっかりと、感謝するままの自分の維持をし心を常に動かしていこうと思います。

植物から、成長を学ぶのに振動と震動、そして心動を観直しています。

我を省く

人は自分の思いもしないような出来事が起きると、出来事が起きたのは自分が起こしたのかと考える間もなくその状況に右往左往してしまうものです。

しかし四季のめぐりや蒔いた種が芽を出すように、実は本来は自分が望んで起こした現象であるとも言えるのです。それが他人や外部から起こされたかのように感じてしまうのは、突然のことであったり、予期していないや、想定外などといった理由をつけてはそうしているのです。

例えば、先日の原発事故もそうですがそうなると分かっていることを今さら想定外ということをいっても、本来はその原発をつくるという種を蒔いているからこそその芽が出ているとも言えるのです。

人生は理不尽に感じるのは、主観で自我が強いから自分の思い通りではないや自分の都合にあわないと思うからであり、もしも主観で自分がなければ必然であることや役割であったことを受け容れるように思います。

もちろん、主観か客観かという意味ではなく、その両方の主導権をどう持つのかということになるのではないかと思います。

自他を尊重しようとすると、自分もですが相手のことも同じくらい思いやる必要があります。それはまるで、自分の身体も心も大事しているのと似ていていつも感謝のままでいるということに他なりません。

人はつい当たり前と思うと、すぐに自分の都合で当たり前であることを認識します。しかし本来のことすべては当たり前ではない、実は有難いことだと思っていれば自然に感謝していくことができるのです。

気が付くと人は自分のことばかりを考えていて、あまり全体や周りの人々のことを考えなくなってきたように思います。もちろん、だからこそ優しい人は目立つ世の中になってきましたがみんなが目指した日本人の姿に近づけるようにそれぞれが正直に精進していくことしかないように思います。

そのような他人の事を自分のこと以上に考えられるような温かい心を持つ人をリーダーに育てていくような環境もまた必要だと私は思います。昔の模範はいくらでも足跡や人々の心に残っています。これは今の時代だからとか、環境が異なっているからできないのではありません。

御互いの利害を超えてまで生き方に正直に真摯に取り組んでいく誠の心を今の世代の責任者として体現していくことがこれからの子どもたちの未来への希望になるはずです。

利害を超えて、心から共に歩めるような同志を求め師と共に自らの我を省くことに取り組んでいきたいと思います。

旅のご縁

昨日、国立科学博物館でグレートジャーニー人類の旅の特別展を見てきました。

もともと人類はどのような経路をたどって今に至るのかを、科学的に解明していくのは大変興味があるものです。それを探検家の関野吉晴氏がその足跡を辿りながら、原住民やその土地の人たちと触れ合い人類の生き残るための智慧を洞察したものです。

興味深いものはたくさんあったのですが、どれも自然と文明との共生をどうするか、先人の智慧に学びどう活かすか、忘れてはいけないものは何か、今までに感謝しこれからの子孫へ遺していくものは何かと、今の私たちに訴えかけてくるものです。

人類は、今までも様々な困難を乗り越えて世界へと分布してきました。新天地を求めて旅をし、どんな厳しい環境の中でもそこで生活していこうと努力してきました。まさに私たち人間のDNAは、新天地を求めて挑戦し、そこの生活に適応していくことで生き残ったのかもしれません。

そう考えてみると、いまや月や火星にまでいきその宇宙空間でもどうやって順応していけばいいかと挑戦しているともいえます。

ここから洞察できるのは、種を遺すためにどの生命も必死に適応しようと進化を已みません。そしてそれは新しいいのちとのつながりを求めていく旅をしているのかもしれません。つまりは、生き残りの智慧というものは頭で理解し考えるずっと以前から自分の中に備わっているということです。

人は、誰が教えなくても本当は生きる智慧も生きる力も備わっているともいえます。それが教えられることで邪魔され本来のものが出てきにくくなっているとも私は思うのです。今のように教えられることが多い世の中にいれば、当然、関野氏のような教えの削除のような実学による体験が必用ではないかと思います。

先人の智慧を学ぶのはその格好の学習材料です。その中で、忘れてはならないことと今を生きる上で大切なことを学び直すことであろうと思います。

その探検家関野氏のインタビュー記事(TOKYO人権52号より)をご紹介します。その中で特に印象に残ったのは、

「ぼくが訪ねた先住民社会では、みんなが「ハッピー」でした。自分と自分の家族だけが良ければいいなんて考えは、彼らにはありません。獲物が獲れたらコミュニティの全員で分けあう。でも、日本を含め、先進国はどうだろう? 自分と自分の周囲のことだけしか気にしない人が増えているんじゃないかって思います。」

「自分さえ良ければという考え方ではなく、地域の人同士で助けあおうという考え方なんですね。ただ、助けあいながらも、個人を尊重することは大切です。それは、民族や文化においても同じです。自分と異なるものを批判するのではなく、認めあう姿勢が大切だと思います。」

「思ったことをまっすぐ言わないところは、なんだか日本の若者に似ていますね(笑)。でも、ぼくは、迷惑をかけあえるつながりが本当のつながりだと思うし、本当の友達や家族なんだと思いますよ。」

自分さえよければいいという自利中心の世の中に、生きる智慧はないのかもしれません。常に利他中心で家族のように互いを大切にしていくことにこそ私たちが旅をしていくための最大の鍵があるように思います。

ご縁を大切にしていくことを再認識する機会になりました、有難うございます。

発達論4~プロセス~

生きものが育つということは、今まで生き残ってきたプロセスの証であるともいえます。

例えば、植物や昆虫などもそうですが必ずある順序性をもって成長していきます。菜の花でいえば、種から芽が出て伸びて花が咲き、そして種をつくります。てんとう虫でいえば、卵から幼虫になり、さなぎを経て成虫になりまた卵を産み繰り返します。

そのように、一つのいのちから多様に分化しそれぞれの生きざまで役割を果たします。そのプロセスは全て必要不可欠でその生き物にしかない大切な役割を帯びています。あらゆる生命のために、その経過と課程を育っていくことでその生き物の生涯を全うしていくのです。

発達の過程というのは、まるで魂を磨き続け人生を掘り下げていくことに似ています。ひとつひとつの発達を獲得していくことで、より自分の役割や使命を果たすために必要な機能は身についてきます。その過程をどのようにその人が自発的に取り組んだかでその人にしかない体験を積みそれをその生涯で活かしていくのです。

つまり発達というのは、その過程を大切にするということが尊いいことであり、そのプロセスを正しく観て、そして信じることでそのいのちが求めるままにさせてあげることで最も全体に必要な使命を果たしてくれるのです。

そうやって貢献していると実感することで、いのちは磨かれそして深められていくからです。

そう思えば、善悪を自分の主観や誰かの決めたモノサシで決めつけるのではなく、その体験、その過程が福だとし善いことにしていくことがそのいのちが望んだ成長を援けていくことになるのであろうと私は思います。

発達過程を信じることは、そのものがそのものでいいと丸ごと受容していくことに似ています。自然の中で私たちがそれぞれに好きに多様化して世界を調和していくのも全てはプロセスを信じることに他なりません。

人生と同じでふり返ってみたら意味がなかったことは何もなかった。そして無駄であったと思うことも何一つなかったと思えるのが人間であろうと思います。それが発達過程であるというのが私の発達論の一つ、「プロセス」であるということです。

何でも画一にし、誰かのモノサシで管理し、時間のスピードがあがっている昨今、プロセスというものの意義が薄れてきているように思います。方法論ではなく生き方を優先できるようになるのも、それはプロセスを深く信じ味わうことから実現するのです。

プロセスを見守り、そのいのちの成長を味わっていくことが子どもを信じることだと思います。