見守るという生き方

変えるというものに、自分の外側のことを変えるのと自分の内側を変えるというものがあります。

外側というのは、自分の内側を変えないで外側を変えようとすることでよく言い訳をするときや責任逃れをするときは外側に意識が集まります。しかし、問題の原因は外側ではなく自分の内側にあるものだと自分のそれまでの誤った考え方に気づき変えることで生活習慣そのものを見直すとき責任は自分になり内側に意識が集まります。

例えば、原理原則を知っているといっても、原理原則を外側で使うのと内側に対して使うのは異なるように思います。例えば、玄米を食べるというときに玄米を食べる理由を自分の外側から起きた問題を解決するために食べている人と、自分の内側から問題を解決しようと内省的な実践をしようと取り組むのでは意味が異なるということです。

人は、生き方まで変えないといけないということについては大変なアレルギー反応を起こすように思います。いくら頭では分かっていても、全身が拒否するというのは、過去の何かの出来事から好悪感情を抱き、思い込みから嫌いになってしまうのに似ています。

食べものの好き嫌いなどもそうですが、嫌いだったものを思い込んでいていくら美味しいといってもその人が食べようとしないのに似ていて、かつての嫌な思い出や記憶が拒絶を生み、そのことから過剰反応してしまうことで避けようとするのです。

子どもの頃に、無理やりにピーマンを食べさせられたり、または自分の発達に合わなかったことを無理をしてさせられたことが発達のねじれとなり、その歪が生涯をかけて生活に影響を与えてしまうこともあるのです。

しかしそれが本来は悪いというものではなく、そういう機会を得たことでそれを天からの贈り物として捉え、機縁を活かし実践を通じて乗り越えることができたなら、そこでまた人生で得難い邂逅をいただけるのが人間の真善美のようにも思います。

いつまでも内省を避けて通ろうとするのではなく、全てを受け容れて実は善いものだったと実感できるところまで弛まずに諦めずに徹底して実践していけば次第にそれが内省そのものになっていくように思います。

内省といいながら、外省をしていても内側の問題は解決していかないように思います。外の世界を信じるように、自分の中も信じることができればそれがすべてを福にしていくという考え方に出逢い、生き方を楽しめるように思います。

方法論が蔓延る世の中で、外側だけは足し算のように増えていきますが、これからは引き算の時代のように思います。これだけ物が溢れて豊かになったのなら、内側は引いていくような自らの生き方の見直しを全人類でやっていくことだろうと私は感じます。

そこに平和という生き方があり、真心対話を通じて異次元調和を志す新しい時代を子々孫々へ譲れるように思います。これは造語ですが真心対話とはあらゆるものに心が宿るとしその心の通じ合わせることと、異次元調和はあらゆる異なるものの個性をそのままに渾然融合していけるという意味です。

これが私の発達論の中心となる思想です。
見守るという生き方を、真摯に味わい、師と共に歩みきっていきたいと思います。

自然が働く

先日、自然治癒について色々と気づくことがありました。

もともと自然治癒というのは、自分の中に本来治る力がありそれが働くことで自然に治癒するという考え方です。そこには、病もまた自然の一部として治るために一時的に病むということです。

この考え方で有名なのはアンドルーワイル氏ですが、そこには信じるということの大切さを述べています。「患者がその治療法を信じること、医師がその治療法を信じること、 そして患者 と医師が互いに信じあうことである。 この三つの要素が働けば真の治癒が起こりうる」と断言しています。

この信じるというのは、自然を働かせるのにとても大切な意味が存在します。

そもそも外側の力で治るという考え方は、治れば信じるという現象に対して信じるかどうかを疑心暗鬼になっている状態です。しかし本来の信じるというのは、どのような現象であっても必ず内側の力が働いてそれが外側の力の協力を得て解決すると信じている状態です。

これは人事を尽くして天命を待つのと同じで、信じるからこそ人事を尽くすことができ、人事を尽くすからこそ他力を呼び込み最終的には福になるという考え方と同じであるのです。

そしてそれを引き出すのは、本人の信じる力、そしてそれを見守る人の力、そしてその本人と周りが互いに深く信じ合うことで自然発生的に根本から治癒していくことができるのです。

根源治癒というのは、信じるということで信じれば根源から治り、そこに疑いや不安があれば対処療法ばかりを遣り続けることになるのです。

信じるというのは、きっとこれで善いのだと思うことや、最終的には待っていればきっと善いことになると楽観的に考えることができるかということだと思います。そこには芯の強さと同時に、信念が必要になるように思います。

生きていれば色々と起こりますから、その一つ一つに正対し、何度も何度も困難を乗り越えていく中で信念が醸成されそして遂に楽観といった安心の境地を持てるように思います。そしてそういう時こそ、自然が働くということです。

自然が働くというのは、信じることが働くと言っていいと思います。

常に楽しく働くには、信じるかどうかということに由ると思います。
見守るということをさらに実感して内省していきたいと思います。

善行動

人は実地実行の質量で変化というものを体現することができます。

特に、何かを思い何を行うかというのは、一日一日の中で試されるようにも思うのです。いくら善いことをしようと祈っていても、善いことは何をするのかの実践をしていなければそれは善いことになろうとしているだけで善い人ではないのです。

二宮尊徳にこうあります。

「朝夕に善を思うといえども、善事をなさざれば善人というべからず」

これもいくら善いと思っていても、具体的に善いことの実地実行をしていなければ善人ではないということです。

会社でいえば、何をするのことが善なのか、どんなことをお客様や世の中に奉仕していくことが善行なのかを決めてそれを日々に積み上げていくことが価値だということになろうと思います。

具体的なことにしていくには、何が善いことなのかを決めてそれを探し、一つでも多く善いことを求めて働かせていく必要があるように思います。今日も自分は、誰かのお役に立てただろうか、具体的な改善ができただろうか、お客様や社会の発展に貢献しただろうかと、常に念じ続けて一つでも多く勤めていくことが大事だなのだと思います。

人は念じ続けることで、求め続けることでアンテナが立ち、発見しやすくなっていくように思います。例えば、探しているから見つかるように、善行をしたいと念じ続けているからその善行のチャンスを見逃さないということだと思います。

何か少しでも、一日一日、ご縁を活かそうと、機会を逃すまいと思えば思うほどにそのチャンスを見出せるようにも思うのです。

チャンスというものは、毎日の積み重ねの集積によって得られるように思います。常に人事を尽くして善行を実地実行した種が芽をだし、発育し収穫できそして次の種になっていくように思います。

自然に繁栄していくには、思うよりも行動することのように思います。
日々に行動をベースに改善していきたいと思います。

天地神明

太古の昔より、私たち日本人は生まれた場所に特別な思いをもって育ってきました。

地域には氏神様や鎮守、産土神というようにその生まれた場所や地域には自分の成長を守護し見守って下さっている存在があるとし、地域への恩返しを通して先祖代々への感謝や祈りと結びついていました。

そもそも私たちはよく勘違いをし、自分だけで育ったと思ってしまうこともあります。
今の自分があるのは、当たり前だと思い違いをするのです。

それはないと言う人もいますが、それでは太陽があるのが当たり前か、水があるのは当たり前か、家族があるのは当たり前か、今、生きているのは本当に当たり前なのかと、その当たり前は次第に持っていて当たり前になってしまうから感謝の心が曇っていくように思います。

よく考えてみると、自分がここまで育ってきたのは周囲の御蔭があってこそでそれは直接的だけではなく間接的にもいつも自分を見守って下さっている存在がいるからだと言えます。寝る場所がある、食べるものがある、そういうもの一つ一つをどれを取っても実は先祖代々、また先祖代々と共に生きてきた様々な自然、そしていのち、そういったものが連綿と存在したつながりの中ではじめて私がいるといえます。

これは滅多ではない大変有難いことであろうと実感することを、一番身近なところから実感していこうとすることが豊かさの真実でもあろうと思うのです。

当たり前を実感できるというのは、心が豊かであることでありそれを常に身近ないのちと歓喜していくというのが幸福というものであろうと思います。

今の時代は、当たり前の使い方が自分にとって当たり前になってしまい、本来の滅多にない有難いことだという意味ではなくなってきています。人間都合、自分都合の当たり前というのは権利の主張に似ていて物がありあまっても不足だという欲望から来ているように思います。

有難いと思う心は、自分の一番身近なところに存在しているように思います。

当たり前ではない全てのかんながらの存在をいつも心に実感して生きていこうとした先人たちの清らかで正直な生き方に故郷を思い出しました。

天地神明というものの本質は、八百万の神々が常に見守ってくださっているという意味でしょう。だったら天地神明の安心の中で古来の先祖の遺恩、正直ということへの感謝を忘れないでいるということを常に自らの欲を打ち払い、穢れに打ち克ち、祈り続けるという真心の実践が大切なのだと思いました。

当たり前ではない邂逅に深く感謝しています。

自分の歩むかんながらの道の中で、出会うべくして出会える旅に心が震えます。
誠心誠意、全身全霊で見守りへの御恩返しをしていきたいと思います。

理念に由る

人はそれぞれに価値観があり、自分が正しいと思うことを信じて取り組んでいます。

それは元来、その人が生まれながらにして持っている使命があり役割や責任を果たそうとしているからとも言えます。それを間違っているというのは、その人の価値観が自分には正しくないからということになってしまうのです。

例えば、誰かに利害が発生してしまう場合は利の場合は善とし、害の場合は悪となるようにその人やその集団を中心に物事のモノサシを持つのですから当然無意識に善悪を決めてしまうのが人間なのです。

しかしそういう善悪などの利害を超えて存在しているものを本能は知覚しているのも事実です。分かっているのに知っているのに心が突き動かされるようなものです。それが役割のようにも思うのです。

動植物の世界でも、まるで自らそれを知っているからのようにいのちを投げ出したり、過酷な運命であっても役割を担ったりしているのではないかと思えるような出来事を拝見することがあります。それは運命を受け容れているかのようです。

人間は、それでも価値観を優先して自分が正しいと貫いて争いを繰り返すようにも思います。それでは正しい人と正しくない人が存在しますからいつまでも協力できずに停滞してしまいます。

だからこそ価値観を超えていくものが互いに必要だと思うのです。それは何よりも遣りたいこと、仁義や真心に由って決めた自分のお役目の場所で語り合うことができれば実現すると思うのです。

価値観を認めるというのは、理念を実現するためにその方法論はいくらでもあった方が善いと思うことだと思います。人は自分の中に見え隠れしながら潜んでいる自利がありますから、無意識にそれが邪魔をして理念を曇らせるように思います。

だからこそ利他で生きることが、自分の中の理念をより明確にしていき何をもって正しいかを互いに確認していき人々を導いていくことになるように思います。そしてそこには、多くの人達の使命を活かす役割を同時に果たすことになるのです。

論語に、「己れに克ちて礼に復るを仁と為す。一旦己れに克ちて礼に復れば天下仁に帰す。」があります。一日一日を、どれだけ理念に由って遣り切るかが、世の中にどれだけ貢献しているかになるのであろうと私は思います。

常に理念に由って、日々の実践を踏み固めていこうと思います。

 

自然に調律し、自然を調整する

自然農に取り組みはじめて2年目になりますが、何が自然であるかの定義はいよいよしっかりしてきました。

最初は、福岡正信先生が遺した老子風の自然農法ではじめてみたのですが、その後、川口由一先生の虫も草も敵にしない真心の自然農の実践に出逢い、自然の在り方を学び直しています。

元々、私は二宮尊徳の心田を耕すということがどういうことであろうかを農から学び直していこうという気持ちも強くありましたから、それがかんながらの道とも同調して楽しく豊かに味わうことができています。

場を与えてくださったこと、人を与えてくださったこと、そして実践ができることに感謝します。

自然農といっても自然の任せているというのは、自然のままにしていることではありません。自然をよく観察し、自然を信じ、自然に委ねながら、何を手伝い、何を変化させていくのかを学び続ける必要があります。

自然に寄り添うためにはまず自然を観察し続けることと、そこに自分を合わせ続けていくという自然に調律する実践が必要になります。これは本来、とても安らかなことで、無為自然の境地を味わうと全体と調和しとても幸せな心地になります。最少をもって、最大を生きるようなものかもしれません。

しかしそれだけをやっても畑も田んぼも荒れ果てるだけで作物は取れないし水はけも悪くなり、そのうち雑草だけの荒れ地のようになってきます。

私たちは人間として生きているのだから、人間の中で生きる道理もあるのです。人間の間の真心は貢献しあうことであろうと思います。何を手伝い、何に貢献するのかということです。

そうしてみると、自然は有為転変しているものですから人間が思っている通りにはなりません。だから常にその中で生きる私たちは協力して真心を使っていく実践が必要になるのです。そこには天の見守りへの感謝や報恩の気持ちを忘れずに常に周囲の人々たちと分かち合い、助け合うために自然を調整していかなければなりません。これは最小をもって、最多を生きるようなものなのかもしれません。

無為自然と有為自然があってこの世は成り立ちます。

それは客観と主観のように、全体から観た自分と、自分から観た全体があるというものだからです。生きているというのは、活かされると生きるが重なり合って存在しているからのように思います。

自然農の醍醐味と味わいというのは、自然に調律し、自然を調整するということかもしれません。自他一体、主客一体、人間の人間たる所以、その両方のバランスで本能と理性を行き来しながら宇宙の心、かんながらの道を歩めるということかもしれません。

畢竟、生きるという楽しみが自立ということなのでしょう。

まだ方向性が観えたくらいです、これから新たな実践により理論化していこうと思います。

発達論3~バランス~

発達でよく語られるのに、方向性や連続性というものがあります。これは必ずある方向に向かって育っていき、その育ちは連続してやまないという意味です。

しかしそれはなぜかということです。

全ての生きものは、中心を持っています。この中心とは例えば、太陽の方を向いて育とうとしたり、水の流れに従って育とうとしたり、四季にあわせて廻りを繰り返していくように、自然に合わせていくのもその中心があるからできると言えます。

方向性というものも、中心から全体へ全体から中心へという自他全体へ向かって成長しています。同時に、連続性というものも同じくそれが関係性の中で存在することで成長し合うとも言えます。

つまり、発達には全体と調和しようとする中心が存在しているのです。その中心こそが発達だと定義すれば発達には必ず「バランス」というものがあるということになります。

生命が多様化しているのも、環境によって影響し合うのも、そこにはバランスを維持しようといった働きが存在しているからです。自分の身体と同じように、全ての臓器が複合的に調和し機能しあっているように全体のバランスが成って存在するのが私たちだからです。何かを切り取って存在するものなどこの世にはなく、全ては調和を中心とするのです。

発達を見極めていくということは、自分がどこでバランスの中心を持つのかを知ることであり、何と関わりをもって存在しているのを自覚していくことであろうと思います。

常に発達がその瞬間瞬間で全体と調和しある一定の方向へと育つのは銀河系がある一定の方向へと回転するようにまた太陽や月や地球が絶妙な距離を維持しているように関わりの中で存在していることを実感させるものだからです。

発達を見守るには、そのものとのバランスを考えて自分自身がバランスを維持していく絶妙な関係性や方向性が必用のように思います。

そこには互いを深く尊重し合うからこそ維持できる発達のバランスがあるのです。発達を見守るというのは、自他を尊重しバランスを常に優先していることができるということであろうと思います。

思い込みが強く先入観に囚われれば、バランスが崩れてしまい中心から外れていることで不安や疑心が生まれるのでしょう。常に自分自身を正していくことは、恒にバランスでいるということでそこには自然体でいることができるかどうかによるように思います。

自然から離れてしまっている今の世の中、引き続き発達を整理していきたいと思います。

自然の中へ

昨年の自然農の取り組みから一年が経ち、また今年も種蒔きの時機に入りました。

いつも農園の傍にいれるわけではなく、離れているからこそより一層の信念が問われます。最初はいくら不可能はないと思えても、実際は大きな壁が何度も何度も出てきては先入観との闘いをしそれを取り除いていきます。

私の場合は偶然か、あまり昔のことを思い出さない性格のせいで先入観は少ないように思います。それが思いつきであったりして時には周りにご迷惑をおかけしますが信じる方を優先して持続させていくことができるようです。

しかし己に克てるかどうかといえば、日々に優先しているものが出てきますからなかなか自分の思い通りにはいきません。思い通りにいかないからこそ見通すことが必要になります。

そして見通しはその場、その環境を通して遣り切っていくと次第に成熟していくように思います。これも一朝一夕にはいかず、常に今を全受容し真剣に打ち込むよりないように思います。

私の場合も、昔は予測などを立てていましたが失敗するのもその予測のせいでしたからそれをやめ、今では真摯に脚下のことに集中すると決めて取り組んでいます。そうはいっても、妄念や雑念なども過り、なかなか今に生き切ることは難しいと感じます。

見抜くことができるかどうかも、何を目指しているのか、何処を志すのかが明確にならなければその力は醸成されないからです。

何度でも何度でも失敗しても、そこから学び、そこからコツを掴めばそこに損得はなく、尊い体験だけが残り、それが自分の志が目指すもののマイルストーンになっていくからです。

昨日も、幼馴染と共に畑に出て農作業をし共に弁当を食べ、久しい日々を語り合いました。自然農をはじめて、自分の不自然さにもよく気づけるようになり、自分のズレをより一層修正していくことができるようにもなりました。種を蒔いたものが次第に芽生えてきています、収穫はすでに有難いものを得ています。

共に居れば苦しみは半分、歓びは数倍に。人生は大切な人たちとの関わりにより支えられています。今日も引き続き、自然の中に入っていこうと思います。

発達論2~タイミング~

西洋には発達心理学があり、発達の順序性、発達の方向性、発達の選択性や習熟性などそれぞれの人達が研究しまとめたものがあります。それに比べて私の発達論は、発達を通してどう自然から観える成長を捉えるか、言い換えれば見守りが実感できるかということに焦点を当てています。

これは私の尊敬する師の視点から学んだものですが、そもそも生命というものは分かれておらずその全てが偉大な見守りの中にあるという観点から定めたものです。なので少し他の発達論とは異なりますが整理していきたいと思います。

自然の中では、それぞれに自らが育とうとする生きる力の一つに「タイミング」というものがあります。どの時機に自分が何をすることがもっとも相応しいかは個々で自明しているように思えるからです。

植物でもそうですが、たくさんの種があったにせよ出てくる時機やスピード、そのタイミング、それらは環境にあわせてまた全体との関係性においていつ出ていくのが善いのかを知っているかのように思うのです。

人間で言っても、人生のどの時機を区切ったにせよそれは確かなタイミングを捉えていたのではないかとふり返って洞察すれば実感するからです。これも本能で呼吸や血液のめぐりと同じく、元々持っている生きる力の一つであろうと思います。

しかもこれはとても神妙で、誰にも分からないけれど自分のタイミングは自分の心が決めたままに移動して合せていくように思うからです。私はこれを「発達は時機を外さない」という生きる力が働いているように思っています。

全ての生きものは偉大な見守りの中に存在していて、どんなに小さないのちであっても役割というものが与えられずにこの世に存在しているものは何もありません。人間都合で役割を決めてしまえば、ゴミや屑のような言い方で分別しますが本来、この世には有無の無も在も全ては必要不可欠で成りなっているとも言えるからです。

そこで関わりあうものとそこで存在しあうものがつながっていることを自覚すれば、お互いの役割の本質を知るのは何より自分自身なのだと定義できるからです。だからこそ、その見守りの場所から発達を観た場合、発達のタイミングが外れることは決してないと言い切れるのです。

発達の時機をよくよく洞察し観察することを習熟すれば、自分の天命に気づくようにも思います。自他の発達段階に気づけるというのは、発達を通して普遍性が観えている状態だということです。発達の普遍性は、このタイミングというものを観通す中で実感できるというのが今の私の深めた発達論です。人生の体験を深めると同時に、歳を経てふり返ればきっと発達するという自分のお役目を果たしたといった安心の境地を獲得することができる日がくるのでしょう。

ですから常に今、どのような発達の時機なのかを知るには当然何よりも優先して自分の発達を知る必要があり、同時に周囲や相手、そのものを丸ごと認めた上で発達の理解を深めていることが大切です。

一人一人の発達を信じることは、その人、そのいのちには最も相応しい時機だったと自覚することのように思います。それは自然、至善、幸福という発想ととても似ているように思います。

発達の偏りとは、本来はそうではない見方をすることをいうのではないかと最近は思うようになりました。そう考えれば偏りとは、自分のものの見方の偏り、つまりはその人の価値観のことになるだけですから。他人の発達を修正しようとばかり躍起になるのではなく、自分の方の発達の偏りを正すことが先決なのです。

引き続き、発達論を整理していきたいと思います。

発達論1~ライブ~

自然界では、本能があり生まれた時からどのように学ぶのかを自覚しています。

虫も鳥も、その他の植物も自分がどうやって育つのかを自らが獲得していくように思えるからです。誰も教えていなくても、自然に自分がどうすればいいかを知っているのです。本能は全てを知っていて、呼吸と同じように心臓の鼓動と同じように、どうすれば生きられるのかは元々存在しているように思います。

現代では便利になり頭で生きることを考えることで、自然から離れた生き方から本来備わっている生きる智慧というものを次第に見失ってきて方法論に走っているようにも思います。今も生きているということを再確認しもう一度、どう生きればいいかを自然に学ぶことが必要なのかもしれません。

子どもたちは、誰が教えていなくても自然に自分なりのやり方で学びこんでいきます。先に教えたくなるのが私たちですが実際は教え込まなくても、本能で生き方を身に着けているようにも思うのです。つまりは生命は常に自学自悟なのです。

例えば、その一つの生きる力に「諦めない」があります。

諦めないとは、生きることを諦めないということでありどんな逆境が訪れようが何度も失敗して悔しい思いをしようが何度でも何度でも前に進んでいこうとする生きる力です。それは教えたのではなく、自ら育とうとして発して育つのです。

これも私たちが自然に持って生まれた本能で、子どもの時から上手くできないと自分のやりたいことが達成できないことに泣いて、達したら安堵し笑って、それを学習し、そして何度も反復して発達を獲得していくというものが備わっているからです。これはなぜかといえば、そうやって今まで生き残ってきたからと言えるからです。

当然、今の私が生きているというのは先祖代々の方々が過酷な環境でも生き抜いてこられたという大前提があってのものです。生きているというのは生きてきたということ、その発達の経過が必ずあるということです。

自然界では諦めないものが生き残り、諦めたものが進化をやめ衰退していくのは自明の理なのもそれは今も生きているということだからです。常に生きるために変化を已まないでいられるのは、私たちの生命が元々から与えられている自然であろうと思うのです。

それを忘れかけてしまうのは、諦めても生きていけると勘違いするからでろうと思います。世の中には刷り込みといった本能が学ぼうとするのを妨げる学びというものがあるのも事実です。だからこそそんなことに流されないように、自分の本能の学びを信じて諦めずに取り組んでいくことが生きる力を育て人生を豊かにしていく方法のように思います。

逆境は誰にしろ嫌と思うものですが、逆境だからこそ諦めない心が育ち、自分の中の生きる力が活性化され、学びが充実したものになります。

発達を促すのは自他の諦めない心が引き出していくものかもしれません。それは自然が希望があり最期まで決して諦めないように、私たちの心の中に諦めないという自然が生きているからのように思います。諦めない心を教えてくれたのは、今まで生き抜いてきた先人たち、全ての生命の経緯と存在があるからそう思えるのです。

生命の歴史がライブであり、生活とは今を生きていることであり、ライブとはいのちそのものと一体であるというものだと思います。だからこそ、今を生きていることに敬意をもって自他を常に活かそうとすることが発達をしていくことであろうと私は思います。そして生き残るために見守ることが譲っていくことだと思います。

コーチを学び直すのに自らの発達論についてこれから少しずつ整理していきますが、そのはじめの発達は「ライブ」だとしたいと思います。