発達論2~タイミング~

西洋には発達心理学があり、発達の順序性、発達の方向性、発達の選択性や習熟性などそれぞれの人達が研究しまとめたものがあります。それに比べて私の発達論は、発達を通してどう自然から観える成長を捉えるか、言い換えれば見守りが実感できるかということに焦点を当てています。

これは私の尊敬する師の視点から学んだものですが、そもそも生命というものは分かれておらずその全てが偉大な見守りの中にあるという観点から定めたものです。なので少し他の発達論とは異なりますが整理していきたいと思います。

自然の中では、それぞれに自らが育とうとする生きる力の一つに「タイミング」というものがあります。どの時機に自分が何をすることがもっとも相応しいかは個々で自明しているように思えるからです。

植物でもそうですが、たくさんの種があったにせよ出てくる時機やスピード、そのタイミング、それらは環境にあわせてまた全体との関係性においていつ出ていくのが善いのかを知っているかのように思うのです。

人間で言っても、人生のどの時機を区切ったにせよそれは確かなタイミングを捉えていたのではないかとふり返って洞察すれば実感するからです。これも本能で呼吸や血液のめぐりと同じく、元々持っている生きる力の一つであろうと思います。

しかもこれはとても神妙で、誰にも分からないけれど自分のタイミングは自分の心が決めたままに移動して合せていくように思うからです。私はこれを「発達は時機を外さない」という生きる力が働いているように思っています。

全ての生きものは偉大な見守りの中に存在していて、どんなに小さないのちであっても役割というものが与えられずにこの世に存在しているものは何もありません。人間都合で役割を決めてしまえば、ゴミや屑のような言い方で分別しますが本来、この世には有無の無も在も全ては必要不可欠で成りなっているとも言えるからです。

そこで関わりあうものとそこで存在しあうものがつながっていることを自覚すれば、お互いの役割の本質を知るのは何より自分自身なのだと定義できるからです。だからこそ、その見守りの場所から発達を観た場合、発達のタイミングが外れることは決してないと言い切れるのです。

発達の時機をよくよく洞察し観察することを習熟すれば、自分の天命に気づくようにも思います。自他の発達段階に気づけるというのは、発達を通して普遍性が観えている状態だということです。発達の普遍性は、このタイミングというものを観通す中で実感できるというのが今の私の深めた発達論です。人生の体験を深めると同時に、歳を経てふり返ればきっと発達するという自分のお役目を果たしたといった安心の境地を獲得することができる日がくるのでしょう。

ですから常に今、どのような発達の時機なのかを知るには当然何よりも優先して自分の発達を知る必要があり、同時に周囲や相手、そのものを丸ごと認めた上で発達の理解を深めていることが大切です。

一人一人の発達を信じることは、その人、そのいのちには最も相応しい時機だったと自覚することのように思います。それは自然、至善、幸福という発想ととても似ているように思います。

発達の偏りとは、本来はそうではない見方をすることをいうのではないかと最近は思うようになりました。そう考えれば偏りとは、自分のものの見方の偏り、つまりはその人の価値観のことになるだけですから。他人の発達を修正しようとばかり躍起になるのではなく、自分の方の発達の偏りを正すことが先決なのです。

引き続き、発達論を整理していきたいと思います。