自然農に取り組みはじめて2年目になりますが、何が自然であるかの定義はいよいよしっかりしてきました。
最初は、福岡正信先生が遺した老子風の自然農法ではじめてみたのですが、その後、川口由一先生の虫も草も敵にしない真心の自然農の実践に出逢い、自然の在り方を学び直しています。
元々、私は二宮尊徳の心田を耕すということがどういうことであろうかを農から学び直していこうという気持ちも強くありましたから、それがかんながらの道とも同調して楽しく豊かに味わうことができています。
場を与えてくださったこと、人を与えてくださったこと、そして実践ができることに感謝します。
自然農といっても自然の任せているというのは、自然のままにしていることではありません。自然をよく観察し、自然を信じ、自然に委ねながら、何を手伝い、何を変化させていくのかを学び続ける必要があります。
自然に寄り添うためにはまず自然を観察し続けることと、そこに自分を合わせ続けていくという自然に調律する実践が必要になります。これは本来、とても安らかなことで、無為自然の境地を味わうと全体と調和しとても幸せな心地になります。最少をもって、最大を生きるようなものかもしれません。
しかしそれだけをやっても畑も田んぼも荒れ果てるだけで作物は取れないし水はけも悪くなり、そのうち雑草だけの荒れ地のようになってきます。
私たちは人間として生きているのだから、人間の中で生きる道理もあるのです。人間の間の真心は貢献しあうことであろうと思います。何を手伝い、何に貢献するのかということです。
そうしてみると、自然は有為転変しているものですから人間が思っている通りにはなりません。だから常にその中で生きる私たちは協力して真心を使っていく実践が必要になるのです。そこには天の見守りへの感謝や報恩の気持ちを忘れずに常に周囲の人々たちと分かち合い、助け合うために自然を調整していかなければなりません。これは最小をもって、最多を生きるようなものなのかもしれません。
無為自然と有為自然があってこの世は成り立ちます。
それは客観と主観のように、全体から観た自分と、自分から観た全体があるというものだからです。生きているというのは、活かされると生きるが重なり合って存在しているからのように思います。
自然農の醍醐味と味わいというのは、自然に調律し、自然を調整するということかもしれません。自他一体、主客一体、人間の人間たる所以、その両方のバランスで本能と理性を行き来しながら宇宙の心、かんながらの道を歩めるということかもしれません。
畢竟、生きるという楽しみが自立ということなのでしょう。
まだ方向性が観えたくらいです、これから新たな実践により理論化していこうと思います。