理念に由る

人はそれぞれに価値観があり、自分が正しいと思うことを信じて取り組んでいます。

それは元来、その人が生まれながらにして持っている使命があり役割や責任を果たそうとしているからとも言えます。それを間違っているというのは、その人の価値観が自分には正しくないからということになってしまうのです。

例えば、誰かに利害が発生してしまう場合は利の場合は善とし、害の場合は悪となるようにその人やその集団を中心に物事のモノサシを持つのですから当然無意識に善悪を決めてしまうのが人間なのです。

しかしそういう善悪などの利害を超えて存在しているものを本能は知覚しているのも事実です。分かっているのに知っているのに心が突き動かされるようなものです。それが役割のようにも思うのです。

動植物の世界でも、まるで自らそれを知っているからのようにいのちを投げ出したり、過酷な運命であっても役割を担ったりしているのではないかと思えるような出来事を拝見することがあります。それは運命を受け容れているかのようです。

人間は、それでも価値観を優先して自分が正しいと貫いて争いを繰り返すようにも思います。それでは正しい人と正しくない人が存在しますからいつまでも協力できずに停滞してしまいます。

だからこそ価値観を超えていくものが互いに必要だと思うのです。それは何よりも遣りたいこと、仁義や真心に由って決めた自分のお役目の場所で語り合うことができれば実現すると思うのです。

価値観を認めるというのは、理念を実現するためにその方法論はいくらでもあった方が善いと思うことだと思います。人は自分の中に見え隠れしながら潜んでいる自利がありますから、無意識にそれが邪魔をして理念を曇らせるように思います。

だからこそ利他で生きることが、自分の中の理念をより明確にしていき何をもって正しいかを互いに確認していき人々を導いていくことになるように思います。そしてそこには、多くの人達の使命を活かす役割を同時に果たすことになるのです。

論語に、「己れに克ちて礼に復るを仁と為す。一旦己れに克ちて礼に復れば天下仁に帰す。」があります。一日一日を、どれだけ理念に由って遣り切るかが、世の中にどれだけ貢献しているかになるのであろうと私は思います。

常に理念に由って、日々の実践を踏み固めていこうと思います。