太古の昔より、私たち日本人は生まれた場所に特別な思いをもって育ってきました。
地域には氏神様や鎮守、産土神というようにその生まれた場所や地域には自分の成長を守護し見守って下さっている存在があるとし、地域への恩返しを通して先祖代々への感謝や祈りと結びついていました。
そもそも私たちはよく勘違いをし、自分だけで育ったと思ってしまうこともあります。
今の自分があるのは、当たり前だと思い違いをするのです。
それはないと言う人もいますが、それでは太陽があるのが当たり前か、水があるのは当たり前か、家族があるのは当たり前か、今、生きているのは本当に当たり前なのかと、その当たり前は次第に持っていて当たり前になってしまうから感謝の心が曇っていくように思います。
よく考えてみると、自分がここまで育ってきたのは周囲の御蔭があってこそでそれは直接的だけではなく間接的にもいつも自分を見守って下さっている存在がいるからだと言えます。寝る場所がある、食べるものがある、そういうもの一つ一つをどれを取っても実は先祖代々、また先祖代々と共に生きてきた様々な自然、そしていのち、そういったものが連綿と存在したつながりの中ではじめて私がいるといえます。
これは滅多ではない大変有難いことであろうと実感することを、一番身近なところから実感していこうとすることが豊かさの真実でもあろうと思うのです。
当たり前を実感できるというのは、心が豊かであることでありそれを常に身近ないのちと歓喜していくというのが幸福というものであろうと思います。
今の時代は、当たり前の使い方が自分にとって当たり前になってしまい、本来の滅多にない有難いことだという意味ではなくなってきています。人間都合、自分都合の当たり前というのは権利の主張に似ていて物がありあまっても不足だという欲望から来ているように思います。
有難いと思う心は、自分の一番身近なところに存在しているように思います。
当たり前ではない全てのかんながらの存在をいつも心に実感して生きていこうとした先人たちの清らかで正直な生き方に故郷を思い出しました。
天地神明というものの本質は、八百万の神々が常に見守ってくださっているという意味でしょう。だったら天地神明の安心の中で古来の先祖の遺恩、正直ということへの感謝を忘れないでいるということを常に自らの欲を打ち払い、穢れに打ち克ち、祈り続けるという真心の実践が大切なのだと思いました。
当たり前ではない邂逅に深く感謝しています。
自分の歩むかんながらの道の中で、出会うべくして出会える旅に心が震えます。
誠心誠意、全身全霊で見守りへの御恩返しをしていきたいと思います。