物事はその人の捉え方次第でどうにでも解釈できるものです。
例えば今の時代は、比較競争の中でのモノサシで判断することが多いですから誰かと比べてどうだとか、何かよりはどうだとか、常にそのモノサシは世間で評価される刷り込みの中で認識するものです。
自分というものがどうしたいのか、自分がどうありたいのかということを考えていても自分を誰かに必死に説明するために生きている人の方が多いようにも思います。
自分のことを分かってもらいたいと思うのが人間ですから、自分のことを伝えたいという思いは強いのでしょうが本来、その人が何かということについてはあまり語られることはありません。
その人そのものの価値を正しく自己認識している人は少なく、自分の価値がどうであるのかは誰かの価値基準にあわせて納得し理解していたりするものです。
本来の存在は全てにかけがえのないものだといくら頭で認識していても、それは何かを遣ったらとか、何か特別な能力があったらとか、結果を出したらとか、そのような大前提がまず存在しているように思います。
私はそういうときはよく花を思います。それはどんな花があったにせよその花は丸ごとでその花だからいいということ。
存在を丸ごと認めることができるというのは、自分を遣り切るからだと思います。遣り切る生き方というのは、自分の存在を丸ごとでいのちを遣い切っているほどに自分の全部で生きてみようと決めた時からスタートするようにも思います。
自分の全部でという思想。
ここに、智・仁・勇を兼ね備えた一己の人格があるように思います。
そうやって全部を出し切って生きることができ、死ぬことができればこれ幸いだと思います。
そうしていくことが自然の貢献であろうとも思います。
日々を楽みきっていこうと思います。