自分の存在価値を認められるということほど、人が安心することはありません。
人は誰かから評価されて生きる事よりも、自分自身の価値を自分で認識できるかどうかの方が大切であるように思います。そういう私自身も、半生を振り返ってみれば比較競争の社会の中で自分が自分のままでいいとはいつまでも思えず、誰かのモノサシや、他人に分かってもらえない苦しみ、自分の価値が正しく理解できずに自分自身が無理をしてきたことを思い出します。
結果としては、それも無駄ではなくその御蔭で弱い立場の人たちのことを知ったり、子どもたちが置かれている状況に共感し、信念へのエネルギーへと転換することができました。だからこそ、どうしたら自信を持たせることができるのかと正対しているのです。
実際に人は自分というものが、自分で満足できるかどうかはその人次第であろうと思います。いくら他人が見て偉業だと褒め称えても、その人が自分でそう思えないのであれば自信は積み上がっていくことはないからです。
自信が積み上がっていくというのは、自分自身が自らの存在を認めることができるときにはじめてできるように思います。例えば、自分のままで居ていいと実感できること、そうやって自分自身を丸ごと認めるとき自信というものは持てるようになります。
もっとシンプルに言えば他の人ができることが自分にできなかったとしても、他の人ができないことが自分にできていると実感できることだと思います。それは決して能力のことをいうのではなく、その存在が光っていると自分自身が納得できるかどうかによるからです。
そしてそれは、つながりの中で生きている自他との関わりそのものを尊重し認めることだろうとも思うのです。分断して分裂させ、排除し、孤立させるような価値観が人々の心に穴をあけてしまっているように思うのです。
人は色々な人が居て善いのですから、色々なことをしても善い社会があったらと祈ります。
そうしてそれは子どもたちもきっとそう思うはずです。だからこそ、私の目指しているような変な大人たちが増えていかなければならないと私は思います。変というのは、他の人と比べたら変だけれどその人の本性がそのままに出してもいいと思えるような見守る社会を創造することです。
変であるというのは、自分を信じるということでそのままでいいと自分が思うことは周りの人たちに自信をつけさせていくことではないかと私は思います。そしてそれが先祖代々の自らの民族の魂を受け継いでいる世界の中の存在意義になるように思います。
かんながらの道は、常に私にいのちへの自信を省みるように歩みを進めます。自信については、さらに深めて今後の実践の指針を決めていこうと思います。