人は、何かを行おうとし真理や法則を学べばそれを活かしてみようとします。
しかしそれがいくらいいと分かっていても、それを使いこなそうとしてもなかなか簡単に分かるものではありません。例えば、見守ることが信じる事だと言ったとしてもそれを自分の生き方にまで昇華できるかどうかは大変な努力が必要だと私は思うのです。
人間はどうしても、無意識に自分のやりやすい方、自分ですぐにできる方に周りを合わせさせ自分の方を変えようとはしないものです。つまりは、大変だらしない存在であろうとも思うのです。
早起き一つ、整理整頓一つ、親切丁寧一つもなかなかできないもので、いくらそれが善いと分かっていても気が付くと自分の欲や感情に負けて流されてしまうものです。
これは人間は元来強くない存在だからこそ、自分で強くなるためにも、いくら最初に決めたことがあったにせよそれを忘れないために自分を知り、自分を正し、そのための実践を心を籠めて精進し、日々に内省を続けていかなければならないのではないかと思います。しかしそういうことを怠り、自分で自分の努力をしなくなり、「する人」から「させられる人」になってしまう時、人は流されるのです。
そして「する人」とは、自らが決めた結果に責任を持つ人であろうと私は思うのです。
遣り切るという言葉もそういうところから生まれてきているもので、何よりも大事なのは主人公は自分だということを常に自覚し、だらしない気持ちを律し、怠けている態度を制し、常に理想や理念、夢に自分を近づけるために努力精進を継続していくことが「する人」になることであろうとも思うのです。
東井義雄さんの詩に「自分は自分の主人公」があります。
「自分は 自分の 主人公
世界でただ一人の自分を
光いっぱいの自分にしていく 責任者
少々つらいことがあったからといって
ヤケなんか おこすまい
ヤケをおこして
自分で自分をダメにするなんて
こんなにバカげたことってないからな
つらくたってがんばろう
つらさをのりこえる
強い自分を 創っていこう
自分は 自分を創る責任者なんだからな。」
どんなにつらいことがあったにせよ、どんなに自分のだらしなさに嫌気がさして苦しかったにせよ、それが誰しもに共通する人間というものであろうと思います。だからこそ、生き方を決めて生き方に沿って生きようと挑戦していくことこそが尊い実践だとも思います。
最後に、その東井義雄先生がこう言います。
「道はたくさんあるようだけれど、一つしかない、自分がどう生きるかの道以外にはない、テクニックじゃない生き方の問題だ」(仏の声を聞くより)
常に自分がどう生きるのかを向き合い、どう生きたかを向き合い、どう生きようとしたかと向き合い、他人を合わせ鏡にして内省して生き切ること。人生を受け身にさせられないように、より一層自らのいのちを輝かせ続けることこそが自分を大切にするということかもしれません。
人生の真の尊さもまた、そういう境地にあるのかもしれません。
実践できることに感謝し、今日も大切に理念の実践に取り組んでいきたいと思います。