人は遣りたいことがあるかどうかは、自分を持っているかどうかによるものです。そして本来は人間は生まれながらに自分を持っているのですから元々はやりたいことがあったとも言えるのです。
しかし世間や社会に育っていく中で、人は次第に自分のやりたいことを貫こうとすることに疲れてくるものです。例えば、自分がいくらやりたいと思っていても、それを押し通そうとすれば当然それが誰かの迷惑になったり、また出る杭は打つと好きなことをさせないというような機会に何度もぶち当たっていくものです。
私も思い返せば、小さいころから色々な場面や色々な状況で制止され自分というものを持つことよりも我慢することばかりを優先させられることが多かったように思います。
特に学校などでは、私みたいな多動で落ち着きのないタイプは先生にだいぶ迷惑をかけましたし、クラスの人達にも変わった行動や言動で辟易させたことも多かったように思います。変だということを自分が維持していくのも一苦労で、如何に皆に合わせて迷惑をかけない人になるのかを求められてきたようにも思います。
しかし、大人になっていく過程でもそれでもどうしても夢や志が捨てられず、自分を生きることに諦められず、我慢しない方を選んでいたらそれを見守ってくださる有難い師や友、そして仲間たちと出会い、今の自分でいいと実感できるようになったとも思います。
そう考えてみると、もともと自分のやりたいことは何かということを実現し語れるということは、己の道を突き進みそれを貫き通してきて得た自分を持ったということに他なりません。
つまりは、人が自分のやりたいこととも言える信念を堂々と他人に語れるというのは自分の道を歩む決意や覚悟を通して自分を持ったということであり、自分を持っているからこそはじめて他人にその夢や志を語ることができるのだと思うのです。
自分のやりたいことを語るのは、何が何でも自分のやりたいことをやりたいかと誓う信念のようにも思います。何でもやらせてもらえる環境というのは、信念を貫いてやりたければそれをやってもいい環境ということであり、自由に好き勝手やれる環境ということではありません。
今の時代に、信念を貫いてもいいよ、自分を持っていてもいいよ、己の道に生きてもいいよといった環境を用意しているところは大変希少だと思います。しかしそういう環境とは、実は大変有難いのですが自分を自分で律してでも取り組んでいく主体性が必要になります。
そこには選択するという自由に伴う結果責任なども求められていくもので、楽しいだけではなく厳しく自己との闘いに打ち克っていくという強さも必要なのです。そしてそれを見守ることこそが、その人の経験を丸ごと信じるという自他の主体性を引き出すことになっていくのです。
今の時代は、させられていることに満足したり、やらされていることに不満を言っても実際はやらないことに落ち着いてきている人たちがたくさんいます。簡単に言えば、生き方までは貫けずこの辺でと先に自分で自分の限界を決めてそれで妥協してしまうのです。
本来の自分の本性や本能といった、あるがままのいのちを活性化し生き切るにはそういう環境の中でも常に自分を律して自立していくために「自分を持つ」ということ、己の道を切り開くという芯の強さを磨いていかなければなりません。
この芯の強さとは、どんな現状があったにせよこの運命を戴いた以上はすべて道に由るという覚悟を決める勇気を絞り出していくことかもしれません。
私も圧倒的に叶わないなと思えるような師や先人たちの背中に支えられ、怖いけれど楽しそうだと思う好奇な童心に日々を追い求める実践の中での経験を深く味わっています。
自分のやりたいことを持ち、自分の道をそれぞれに突き進み、自ら切り開いた大人たちのその軌跡がきっといつの日か子どもたちの憧れとになると信じています。自分だけではなく、それを多くの人達へと弘げていけることが恩返しであると誓い、実践と経験を尊び楽しんでいきたいと思います。