人間の脳は、すぐに目に映るものを仕分けていくものです。
例えば、携帯でもパソコンでも、食べ物や洋服でも、目に入ったものを自分の中で認識したものに仕分けていくものです。もっと簡単に言えば、こういうものだろうという自分の中の知識を加工し自らの世界にしているともいえます。
もしも加工をするのをやめてみれば、どんなことにも好奇な関心を持ってそのものの本質を知りたいとドキドキワクワクしながら学んでいる人には世界は不思議で満ちたものになるはずです。
あの朝の太陽の眩しさ、夜の月の霊妙さ、地球の活動の尊大さなども日々の中で観過ごすことなく味わい尽くしていくようにも思うのです。
確かに私達の知識の加工はパターン化するのに便利ですぐに役立つとも思いますがその反面、知識があるからそのままを丸ごと受け取る感性が鈍り、最大から最小までの全てを丸ごと味わうことが難しくなってくるように思うのです。知識一辺倒で体験をあまり重視されない優等生がうける教育ばかりを受けてくると、元来生まれる前から備わっている感受性というものやそこからの冒険心などが育ちにくくなるのです。
本来は、まずやりたいことから取り組んでいる時や、もしくはその後に味わっていると余計な知識がそぎ落とされていくのです。私たちの今は、体験しなくても知識で先に体験したかのような錯覚を持ってしまうものです。
それが不安や恐怖になったりして、先に結果を知るからこそ動けなくなるものです。
本来は、結果など分からないのだから思い切って飛び込んでみてそのあとにあれは一体何だったのかと深めながら得ていくものが知識です。それは、その意味をより深く感じ、そこから何につながっているのか、この体験はどれだけ貴重なものだったかと奥から引き出してくるときに必要なのが知識であったのです。
知識を優先して無二の体験をしないとなると、せっかく生まれてきたのに大変勿体ないことだろうと思います。無難を選ぶのではなく、有難の中に本物の自分の人生があると信じることが日々を楽しみ味わい尽くして自分のいのちを遣い切っていくようにも思います。
体験したものは、全て血となり肉となり、いつまでも自分の中に生き続けます。
先入観の知識にとらわれず、新しい境地へと挑戦していきたいと思います。