色々なことが分からなくなると、師から教わった言葉などを整理してその意味をもう一度深め直します。師弟の学びの豊かさというものは、先覚者たちの学んだものを共に学んでいこうとする師弟一体のところで生きるときに感じるからです。
自問自答していくというのは、自明していくのを待つということですがこれは師から学んだもので成熟するということは魂が求めたものが研ぎ澄まされるということだということです。つまり自明というものは来たものをじっくりと待ち、取捨選択していく力ということです。
何が必要で何か不必要か、その優先順位は来たものを待たなければなりません。焦り驕り高ぶることは魂のうずきではなく、それは単に自分を信じられないだけで本来魂をやっているということであるならば自分を信じて来たものは全て今の自分に必要なことだと謙虚に素直でいることが成熟していく魂を育てていくことであろうとも思います。
この「待つ」というのは今を生き、今を信じるということとイコールですが、大変難しいことです。人はつい過去の栄光に縋ったり、未来の希望に託そうとします。しかし本来、魂を磨こうと心が定めた決心があれば後はそれが必ず天が環境を用意してくださっているのだからそれを素直に受け容れ選ばずに全部を意味があると受け取り、それを真摯に学んでいけば夢は必ず実現するとも言えるのです。
特に大きな夢であれば一代だけでは叶わずとも、必ず世代を超えてその夢は受け継がれていくようにも思うのです。
魂がうずくというものも自明ありきであり、これは来たものを観てそして今に全身全霊で実践するとき、「ああ、これは二度とない自分にとって掛け替えのない大変尊い体験をさせてもらっている」と心から感謝に昇華したときうずきは修まるのです。言い換えれば、その連続で魂の目標というものは次第に明らかになってくるものです。
人が一般的にうずいているという感覚のものは、実は古傷が痛むということかもしれません。人は誰しも過去に色々な古傷があり、それは癒えないのですから信じることを阻害する要因と常に向き合っているものです。その時は、生き方を変えよという本当の意味での魂のうずきを蔭で戴いていることに気づかないだけかもしれません。
これは今までの生き方のままでは夢は難しい、だからこそ刷り込みを取り除き新しい自分とし生まれ変わるような生き方をせよと言われているのかもしれません。それは例えば、私ならもっと多くの感謝をして生きなさい、謙虚に自分の間違いを正していきなさいとずっと魂からの声が入っているように思います。
魂のうずきとは、その実、この「転じるうずき」のことで矛盾のうずきですがそれが成長そのもののノックが入るうずきです。そして魂の成長、つまりは魂が成熟するのをじっくり待てるのは魂の矛盾を抱え込む真の胆力が、つまりは今を生き切る必要があるかもしれません。
今できることの最大限を実践していくことで、次第に顕われる今を大切に味わっていきたいと思います。魂は心と体とのバランスの穏やかな時にヒラメキもまた訪れます。
ノックが入る時は発想の転換のチャンス、堅苦しく真面目に考え過ぎず傾き、遊び心で楽しみたいと思います。