劣等感の刷り込み

通知表というものがあります。

通知表を文部科学省のサイトで調べてみると、「保護者に対して子どもの学習指導の状況を連絡し、家庭の理解や協力を求める目的で作成。法的な根拠はなし。 」と書かれています。さらに、「作成、様式、内容等はすべて校長の裁量。 」ともあります。この通知表の歴史を調べてみると、起源はアメリカの翻訳教育学書のようですが驚く事実ばかりでてきます。

実際は単なる家庭との連絡帳のようなものだったものがなぜ今でも優劣表のようになっているのか、そして連絡帳が一方的に学校から「通知」されるものになったのか、本当におかしな刷り込みばかりです。名前の通知というこの言葉もどうしたものかと感じるものです。

どこでもなんでもそうですが、前からやっていたことの意味を考えないのは人間の持つ癖の一つです。なぜそれが行われているのかを考えないままにやっていたら、たいして意味のないものを誰かが間違いで思いつきでやったこともずっと続けられてしまうものです。そうやって間違いの連鎖というのものは、今の時代に引き継がれていきますからちゃんと自分で考え抜かなければならないのです。なぜなら、一度やっていたことは変えてはいけないと思い込むと頑固に意固地になってしまうことが多いからです。

実際に、通知表というものがそもそも何かということを考える人は少ないかもしれません。改めて通知表を見ていると、この仕組みの問題点と課題が観えてきます。

私の子どもの頃は通知表を貰うのがとても嫌でした。子どもは通知表とは何かというのが分かっていませんから数字や〇をみては、周りの子ども達からもバカだと指摘され、人格を否定されるような嘲笑も感じたものです。

そういう時は、先生からのコメントや親からの励ましを救いにした記憶もあります。せっかく指導されても、通知されたものが納得いかないものであれば裁かれたと勘違いするものです。本来は指導計画や指導要領など、その課題を共有し、先生と生徒、保護者、全ての課題を確認し互いに自ら反省し改善するときに使うものです。

以前、ヨーロッパの海外研修で教育施設を視察した時に子どもが自分を評価し、先生も自分を評価し、互いに内省して取り組む姿を観たことがあります。これが連絡帳が道具として活かされている本質だと思ったことがありました。

本来、成績や学力というのは社会の御役に立つ人になるようにお互いに高めていこうと個々の持ち味を高めて共に学んでいくことではじめて身に着いてくるもののように思います・

自分の昔話になりますが中学校のときに第二次成長の性の勉強のところで恥ずかしいからと照れたらそれに怒った先生が授業態度が悪いとそこから何をいっても無視されその学期の通知表に最低評価の1が入りました。実際のテストとは別に品行の優劣を一方的に通知するというのはどういうことかと憤りを覚えたのもその時です。はじめてのことだったので、その通知にとても理解に苦しみ、その記憶と先生はいまでも忘れることができません。

誰かの基準で裁かれたと感じたことは、一生の心の傷に残るものです。

人が誰かの評価を気にして自分を発揮しないようになるのも、この評価を気にすることを刷り込まれたからかもしれません。そして評価には、優劣の評価というものがありこれが一方的であることが問題なのです。

人は劣等感が高まればその逆に頑張りますが、そんなやり方で一時的に学力を上げて本当にそれが将来のその人の幸せを実感できるように生きられるのかとといえば疑問ばかりです。

何でもそうですが、思い込みで動き、思い込みで勘違いすることが多いからこそ、本当のその意味を考えて自らで正しいものにしていかなければなりません。

目的意識~夢を掴む~

自分が何のためにやるのかということを持つことを目的と言います。人は目的を持っていなければ、行う事柄の意味を日々に積み上げていくことはできません。単に同じことの繰り返しであっても、それが何のためかと培っていく人と、そうではない人では長い年月で大変な差がついてしまいます。

例えば、何かを行う際に、単に言われた通りに従って考えずに行う場合は目的を持っていないとも言えます。しかし何のためかを全てに考え抜き、確固たる信念にまで昇華した目的を持ちそれに取り組めば着実に目標に近づいていく実感もまた得られるのです。

この目標というのは将来、こうありたいという結果のことです。そして目的はそれを実現するために一体何をするのか、言い換えれば何のために今、これをやるのかを自分が持つということです。もっと平坦に私なりの言い方をすれば、目的は「何のため」、目標は「何であったか」ということです。

目標を持つというのは、将来の夢を持っているということです。こうなりたいとか、こうありたいとかもあるでしょう。しかし本来の目標というものは、今、最も身近な人の御役に立っているところの延長線上にあると思うのです。家族でも友人でもお客様でも、社会に何の役に立っているかを観ればいいのです。

なぜなら人は、無意識ですが自分の魂の声にしたがって自らの道を必ず歩んでいるからです。それがどんな職業であれ、誰かとの出会いであれ、そのすべては必然であるからです。

必然というと運命論者かと言われるかもしれませんが、そうではなく社会というのはひとりでにできたのではなく、周りの全ての中で自分が存在しているからです。

万物は循環し万命は流転するように全てはつながっている中で自分が生かされているものです。あのお花一輪も自分のみで生きているのではなく、そこからつながりを辿れば地面の土、周りの草花、昆虫、気候、山々、雲や風、太陽から月、銀河系や大宇宙、全体無法まですべてにつながって存在しているのです。

自分勝手に自分だけで夢を探しても本来はつながりのなかで今の自分の布置があるのだから今の自分をあるがままに受け容れる方が将来の目標が観えると思うのです。日々の生き方が死に方であり、夢とは死を想えば観えてくるはずだからです。自分の生きているうちと、死んだ時のことを考えれば目標は誰でも設定できるはずです。

そして目的とは、自分が生きるのは何のためにあるのかを常に心の芯から離さないで過ごすことのように思います。そうすることで意志が明確になっていくように思います。この意志とは自分の自我欲も感情も迷いも惑いも、善転させて芯の強さにしたことを意志と私は呼びます。

そういう意志の強さ、つまりは何のためにこれをやろうと自らをしっかりと持つことこそが本来の自分らしさであり自分を持つということになるのです。どんな時も自分を持つというのは、言い換えれば目的を常に忘れないでいる自分を維持するということです。

ちょっと周りの環境や相手の意志の強さに負けてその場に流されないように、「何のために」ということを常に今を深く探り、そして着実に今の学びを掴み取っていくことが目的意識というものです。

人生はどのような目的で生きるかでその目標も周囲に顕現していくものです。それはまるで何か偉大なものに導かれるようにシンクロニシティに包まれ自然に自らの道を照らしてくださるように実感するものです。

今、思い返しても「今」この瞬間瞬間の選択の連続で夢のような日々を過ごしています。

夢とは、今にどれだけ一期一会に遣り切るかというのが夢を実現することだと私は信じています。自分の都合ばかりを思い計算せず打算せず、どれだけ利他に自分を尽くし切ったか、目的を達成するためにいのちを懸けたか、今に出し切ったか、その場所にだけ存在しているものが夢の本質のように思います。

過ぎ去っている今を何回眺めても、道逝く人を想えば人の夢はとても儚いものに感じます。
だからこそ、目的意識というものを常に自分の中に確認した実践を行いたいと思います。

天才児

障害児という言葉があります。今では障害の害の字が合わないからと障碍児としています。

私は前から何を持って障害かということについては色々と自分で調べてきました。誰が言いだしたのか、そして本当にそういう意味かということをです。

かつては「障礙」とか「障碍」と書いていたものが戦後の漢字制限で「礙」「碍」の漢字が表外漢字になってしまったため、「害」という漢字を宛てて「障害」と書くことが広まったということや、また保育施設などに補助金を出すためには特別な子どものための費用とはできず、障害児だと出せるからという理由で省庁の担当者が名目をそうしたこと、ほとんど本質的ではない安易な理由でその言葉の定義が書き換えられたことに憤りを覚えたものです。

その後はヨーロッパへ視察し、保育現場で問答したときも日本で使われる障害という意味と世界で使われる障害という意味が異なることも知りました。大前提で使われる人間の尊厳や人権という言葉の意味も日本とヨーロッパでは使われ方が異なります。子どものためにという言葉も、大人主体で使うか子ども主体で使うかで異なります。

先日のドイツ視察でも、向こうでは障碍児のことを天才児であると定義していました。例えばIQが高い子どもも障碍児ですし、アスペルガーやLD児と呼ばれる子どもたちも障碍児、もしくは非常に何かに突出した能力を持つ子どもも障碍児ということで天才をつぶさないようにと丁寧に配慮します。

しかし海を渡って日本の現場を見ての認識は、普通のことができない子ども、何か病的なものを生まれながらに持つ子、気になる子というような何かネガティブな意識を持っている人が多いように思います。天才から問題に換わるのです。

だから配慮の仕方も、天才を扱うのだから天才に接するためにどうするかという配慮の考え方と、問題を扱うのだから問題に接するためにどうするかという配慮の考え方という配慮する側の考え方に相違があるのです。

そもそも動物と話ができるとか、直観的にイメージで理解するとか、透明なセンスを持っているとか、心の世界を映せるとかいったことは、その人の役割や天命から生まれながらに必要だと自分に持たせている能力です。それはその人の徳が、世の中の役に立てるようにと自らが選んで発達しようとしているものです。

それを阻害するのは何かといえば、周りの人たちの刷り込みではないかと私は思うのです。矢印を相手へではなく自分へと向けてみれば、平均的ではないものを普通ではないとし、それをネガティブに捉えるか、それをポジティブに捉えるかは、社会を形成していこうとする私達大人たちの生き方、あり方、工夫が常に問われているだけです。

思いやりのある社会を創ろうとしたら、そういう多様な能力を持った人たちがそのままでもいい環境を創りだそうとすることが本当の豊かさにつながっているはずです。

障害になっているのは、子どもの方ではなく、自分自身の先入観や固定概念が障害になっていないかと内省することこそが配慮の本質ではないかと私は思います。異なっている能力そのものを引き出し、認め、活かそうとすることに社会の真の価値があるように思います。

障碍児については全ての子どもが天才だと配慮していくことが、私たち大人の固定概念を取り払うことになるのでしょう。気になる子がたくさんいるということは、それだけ天才児がたくさんいるということです。そして天才が良い悪いではなく、普通が良い悪いではなく、ただその天が与えた才がある、そして人にはそれぞれお役目という差異があるのだと認め、大切にしていくのが自然の見守りと同じような視点の姿勢に立ち返ることです。

多様な自然がイキイキするように、それぞれの役目という持ち味を活かすためにこの障害という先入観と言葉の定義そのものを発達を通じてひっくり返していこうと思います。ミマモリングプラスの、差異分析も、天才児の意味もそこに籠められています。

本来の実践~初心を忘れない~

人間は大切なことを忘れてしまう生きものと言えます。

例えば、初心などもそうですが最初如何にそれが大切だと理解していても日々に流されていく中で次第に考えなくなりそもそもなぜこれをやるのかという理由すらも思い出さずにマンネリ化していくものです。

他人が言った言葉でもそれが自分のものになるまで一つのことをじっくりと時間をかけて自分で考え抜いたり、考え抜いたことを行動したりすることで自分の考えになったとなるまでやることではじめて本来の自発性が働き取り組んだといえます。

しかし誰かに言われたことをただ鵜呑みにして、それをやればいいのだろうと自分の頭でその意味や本質を考え抜かなければ次第にそれはその人の考えに単に従ってやっていることになり、自分自身が決めたことではなく誰かに依存して続けてしまっていることになるからです。それでは面白くなくなり、自分がやりたいことが分からなくなるのです。

何かを誠実に続けるには、自分が物事と常に正対し続けるという本質を伴います。

だからこそ自分が決めたことを自分がいつまでも決め続けるというのが初心を忘れないということです。一旦決めたからとそれでいいわけではなく、決めたらそれが最期まで決め続けたままにしなければならないのが本来の実践です。

しかし毎日の繰り返しの中で、慣れてきてしまうと何となくやることが先になり、そもそも何のために行うのか、なぜそれはやろうとしたのかということは後回しになっていくから忘れるのです。

日々に新しくならないのは、やり方を覚えてしまってそれに落ち着こうとするからです。脳が考えるのをやめたがるからです。だからこそ単にやることが続くことが良いわけではなく、正しく実践し続けることが善いのです。

その人の考えであっても自分の頭で考えてそれを自分のものにするというのが学問です。

例えば、何かの気づきがありやってみようと思ってはじめた日々に行うお祈り一つであってもただ単に手をあわせているだけでそこに心が入らなければ何のために祈るのかを忘れてしまうものです。だからこそ、大変でもそもそも何のために祈るのかと常に初心を毎回思いだし、自分で考えを深めて今此処に心頭身一体に定めて行動しなければ最初の定義した意味から次第に外れてしまうのです。

本質というものは、毎回何かを取り組む前に自分の頭で考え抜き、心で定めたところを思い出し常に初心を忘れないようにしなければ辿りつきません。

言われてからやるとか、頭で分かったところでやるとか、それは考えないことでラクにはなりますが、そのラクこそが遣り甲斐や生き甲斐などを見失い、受け身になり楽しくなくなる原因になっているのです。

考えずに流されてしまう毎日ではなく、自分から考え抜いてでも流れに乗って味わっていこうとするのでは同じ旅路であってもそこに一日の充実があるかどうかが決まってしまいます。同じ積み上げるのならば、無機質に積み上げるのではなく、大切に積み上げていきたいと願うのが自分の人生です。

それに周りにあわせて他と比較して生きるのはラクですが、本来の本懐のままで自分を遣り切ることこそが人生の醍醐味であろうと思います。今に生き切るというのは、なぜこれをやるのかを常に自問自答し自分の頭で考え抜き続けるという実践を行うことでしょう。

「あなたは最初なぜ昔に自分がこの今の姿を決めたかの理由を忘れていませんか?」
「あなたはそもそも初心がどのようであったのかを忘れていませんか?」

常に自問自答は、自分に問いかけ自分が応えることでふり返りが正しくなります。

本当の問題は、何のためであったのかを流されて忘れてしまっていいることかもしれません。 いちいち忙しいとか疲れたとか、時間がないとか場所がないとか、ないないないないという根本がない言い訳にかまけて、自分で常に考えるのを怠らないように日々新たな実践に心を籠めていきたいと思います。

日々を澄ませていくためにも、内省を怠らずに本質に帰りたいと思います。

修身とオープン

オープンになるということは大切なことです。このオープンとは、心と感情の開放のことを言います。そうすることで、自分自身というものの心を澄ませて感情も澄ませていくことができるからです。その両方を磨くということが即ち、オープン=素直になるということです。

論語の大学に修身についてこう書かれています。

「其(そ)の身を修(おさ)めんと欲する者は、先(ま)ず其(そ)の心を正しうす。其(そ)の心を正しうせんと欲する者は、先(ま)ず其(そ)の意(こころばせ)を誠にす。其(そ)の意(こころばせ)を誠にせんと欲する者は、先(ま)ず其(そ)の知を致す。知を致すは物を格(ただ)すに在り。
物格(ただ)して后(のち)知至る。知至りて后(のち)意(こころばせ)誠なり。意(こころばせ)誠にして后(のち)心正し。心正して后(のち)身修まる。」

修身の一部の抜粋からの意訳ですが、身を修めるには心を素直にしていくこと。そしてそれはまず自分の感情を澄ませて正直にしていくこと、正直にするには知を本物にしていくこと。知を本物にするのは、自らを誠心誠意、本心本意のままで在るようにしていくこと。そうして自分が素直に自然体でいるならば知は本物となり、そうなれば感情も正直になる。感情が正直になれば心も素直になる。そうなってはじめてその身が修まるのであると書かれているように思います。

これは簡単なようですが大変難しく、人はどこか他人にあわせて自分を決めているものです。つまりは自然体であろうとするよりも、無理をしてどこか正直ではない自分を演じるものです。良く見せようと思ったり、価値を下げないようにと我慢しているものです。

これが悪いとはいわないのですが、そうなることでオープンではなくなれば余計に身が修まらなくなるのです。オープンでいるというのは、感情をそのままに表現することを大切にしていくということ。つまりは、嬉しい時、悲しい時、辛い時、その自分をそのままに周囲を信頼して開放してもいいと安心している自分があるということ。

そして心がいつも穏やかで澄んでいるならば、その感情も決して周りを傷つけるようなものにはならず、穏やかに弱い人たちを助けていくような勇気になるはずです。

オープンでいるということは、何でも話してもいいという姿勢を自分がいつも周りに示していることです。自然体になることが私にとっての修身ですが、それは仲間にいつも心を開いて自分の感情も含めてオープンでいることのように思います。

素直になれば正直になれば、無茶な事や無理なことを誰かに押し付けるようなことはしなくなるものです。修身とは、本来の明徳や玄徳といったその人がそのままに備えている本来の人格、もっと平坦にいえばその人の魂の個性というようなものを如何に発現させていくかをいうのです。

自分らしさというものは、どこか外に探しにいくものではなく、本来は本物の自分を発掘してそれを周囲へ及ぼしたときに出ているものです。

素直で正直でいるというのは、自らが安心しオープンでいる実践のことでしょう。今の時代の修身とはオープンであることが本質の維持です。常に矢印は自分へ向けて、自らが閉塞状況をつくらないように注意して身を修めていこうと思います。

文明の今

約5000年前くらいまで遡れば、世界では様々な文明が発展していました。エジプト文明やメソポタミヤ文明、黄河文明、インダス文明など四大文明をはじめ、その他でも大小の文明が発展していました。

文明とは何かと言えば、「人知が進んで世の中が開け、精神的、物質的に生活が豊かになった状態。特に、宗教・道徳・学問・芸術などの精神的な文化に対して、技術・機械の発達や社会制度の整備などによる経済的・物質的文化をさす」(goo辞書)とあります。

日本では縄文文明とも言えるものが、青森の三内丸山遺跡の発見により見直されています。気候の変化にあわせて、人間は大移動をしてきました。それは食べ物を求めての旅で、その気候と風土に恵まれた場所で長い時間を生活できたのです。

もともと少しでも今よりも善い環境を求めては、新天地を開拓しながら歩んできた歴史があります。その最適な場所も、1000年単位で時間が経てば住みにくくなりまた新しい場所へと移動するという具合です。

現代の私たちは、様々な科学の発展により電気から石油、ガスなどの資源を用い、環境に左右されずに生活できるような便利なものを開発してきました。そのことで多少の環境の変化があっても、工夫してその場所で生活できるからこそ人口が増加しているともいえます。

ムラやクニという単位をどこまで広げていくのか、そしてその関係をどう他の国々というまとまりと交流し交易し維持していくのかは、かつての人達から学ぶものも多いように思います。

しかし今は圧倒的に人口が増えて、食糧が確保できているから成り立つものもあり、もしも食糧がなくなれば場所を移動しだすようにも思うのです。この縄文文明も、その終焉は気候の変動であったと推測されています。

次第に寒くなってきて、栗や果実の実がとれなくなり次第に暖かい場所へと求めて移動したともいうのです。かつてが、どのような気候であったのかはわかりませんが地球は生きているのですからこの先も環境の変化は已まないのでしょう。

気候が常に変化していくように、時代や時流も常に変化しています。この先の未来がどのように変化するのかは、この今をよく注視し、歴史や文明の辿った経過をよく観て確かめ、順応していくことがいいように思います。

貧しい時の集団の助け合いと、豊かな時の集団の助け合いの持つその意義をみつめ、本来の人間が何を規範として長い年月を暮らしてこれたのか、まだまだ調査していきたいと思います。

脈々と流れる自分のお役目

私達の先祖たちがどのような道を辿ってきて今があるのかは古事記の中の物語や、神話、そしてかつての遺跡から考察することができます。

何かの出来事があったとき、どのような考え方をしたか、どのような思想をもって取り組んできたかを知るのです。今の私たちが生き残っているというということは、その思想が根底に備わっていてそれがあるから私たちが今も発展を継続していくことができるのです。

その思想とは何かと言えば、私たちが日本人らしいと世界で評価されているところのようにも思うのです。それは日本人の道徳観や、民族観、文化観からも顕われています。

例えば、譲り合いの姿でいえば困っている人がいたら放っておけず無条件でその人たちの世話をしたという話は地域のいたるところに残っています。また、子どもっぽい民族で真似好き、地道に正直に何でも受け容れて取り込んでいくことも特徴ですし、おもてなしや礼儀作法、風情や情緒を自然に愛でる精神なども持っています。

こういうひとつひとつの中に、私たちが先祖代々受け継いできている根本の思想があるのです。そしてこれを日本らしさとも言うのでしょう。

私達の先祖たちは、権力で人を使うのではなく思いやりで皆と暮らしていました。それは神話や遺跡、文化からも垣間見れます。震災の時や、有事の時、日本人が慎ましく謙虚に譲り合い助け合う姿は常に世界では高く評価されるのも日本人らしさを見るからです。

私達にとって当たり前と思うことの中に、私たちのルーツがあります。この当たり前をどれだけ今の時代に発掘して還元するかも、子どもたちの仕事をする今を生きる私たちの大切なお役目であろうと思います。

自らを正しく伝承していくというものの大切さは、その時代時代を生きた人たちの使命です。間を取り持つことではじめて人は人になるからです。自分のことばかり考えて自己中心的な人が増えてきて、自分のことばかりに時間を使おうとする利己的な社会になってきましたが、善く周りを見渡せばちゃんと日本人らしい実践を怠らずに流されずに自分を持っている人たちがこの時代を根底で支えています。

恩恵に感謝し、その恩義に報いるためにも先祖から代々守り続けてきた真善美を継承し、その実践を自らの日々を通してカタチに換え、いつまでも子どもたちに誇りと自信を譲って生きたいと思います。

日本人として当たり前のことをもっと大きく深く引き出して、脈々と流れる自分のお役目を全うし、未来や世界の御役に立つために学び直していこうと思います。

自発

自発というのは誰かのために自ら進んで何かを考動することと言います。

これは自分の中で何をすることが役に立つのかを自覚するから芽生えていく生長のことであろうとも思います。全ての生きものは、この自発性を備えているもので自然の中を見渡していても自らが何をすることが善いのかを知らない生きものはいません。

しかし人間は何かを教え込まれ刷り込まれることで我慢を氏そして我儘になることでこの自発性というものが失われていくように思うのです。

そもそもこの自発の発とは何かと定義すると、私の中では本当の自分の心の奥底から発することをいいます。それは呼吸をするように、また血液を循環させるように、または昨日書いたような感謝の本体から発信されてくる発動のことです。

難しい言い方になると、無や空から突然起こってくるようなイメージのものですがこれが自発したということになるのです。直観などという言い方も近いかもしれませんが、言葉で説明するには限界があるのもこの自発という真意です。

自発性というものは、見守ると常に同居しているもので子どもを丸ごと信じてそれをどのようにすれば役に立つかを考える事です。その人がどうしたいのかをよく観て、それを実現するにはどうすればいいかを具体的な仕事で活かすことのように思います。

私達の会社でも発酵というテーマで取り組んだり、日々の記憶や記録を誰かのために発信したりするニュースに取り組み実践するクルーがいますが、すでにその取り組みの実力は群を抜いて発揮しています。最初は分からないままに他動によって始めたにせよ、それを信じて積み上げ取り組む中で自発性というものは引き出されていくものです。

自発性というものは、互いに信じて合っている中で育まれるものなのかもしれません。自発性を持つもの同士は信じ合っているものだから、その信が顕われることが実力というのでしょう。将来のことを信じ、その人が最終的にどのようになりたいかをよく観て、その人に今、必要なことを見守りながら一緒に取り組んでいくということ。その学びの尊さを感じます。

何よりも今の集積を通して、自分が御役に立てていることを日々に自覚するまで遣り切ることが、自発の種に息吹を与えることなのでしょう。そうしてそれが共生の原理であり、人間の社会が持つ「つながり」を味わえる極楽の境地かもしれません。

集団で生きることで発展してきた私たちの祖先は、何を大切にしてきたのか。今回の連休のテーマにしています。

何を与えていくことができるのか、与えられたものが何か、常に自問自答して自発に気づいていこうと思います。

感謝の本体

今年始まった実践に有難うノートというものがあります。
その日その日の有難うという感謝を記していくのです。

よく考えてみるとすぐに理解できるのですが、人はひとりでに育ったわけでありません。多くの人達の見守り、そして誰かしら何かしらの御蔭で今まで生きてこられたとも言えます。

食べもの一つであっても、住環境一つでもあっても、そして生活できることでもそれは本当に数多くの恩恵の中で育てていただいてきたのです。

何でも自分の思い通りにいくことができることが権利としてあると思い違いをするような自分中心の考えに執らわれてしまうとこのような「当たり前」であることすら忘れて不平や不満、その他の自分の身の上の心配に執着してしまうものです。

感謝の本体とは何かと思えば、これは当たり前であることに気づいていることだと思います。

ノートを実践すればするほどに、書き記すことは何も特別ことを与えてくれたとか、夢が叶ったとか、奇跡が起きたとか特異だったことを書いているのではありません。むしろ、実は気づかないだけで身のまわりに存在している当たり前の出来事を当たり前ではないと感じた時のことばかりを書いているからです。

感謝の本体とは、この当たり前にしないという澄んだ本当の自分の顕現です。自我に囚われ、感情に心奪われ、日々の当たり前を当然だとし、傲慢になってくればそこに反省も内省も、そして進歩も成長もなくなるように思います。

謙虚さというものは、どれだけご縁に感謝し、日々の気づきに感動し、利他に生きる感激を味わうことかとも思えます。

もしもこの日が最期だとしたら、何をするだろうかと思う時、一番最初に気づけるのは身近な当たり前に気づきそこへ感謝の行動を示すことではないかと思うのです。そういう日々を当たり前にしていかない実践のその最中にこそ最善の人生があるように思えます。

つい受け身になると、逃げや不安、迷いや惑いに流されてしまいますがその時こそ感謝の本体を伴って道をひらいていく試練だと実感することだと思います。一度しかない人生を攻めるということは、二度とない今を大切に過ごしたという、生きていることに感謝できる今に全身全霊を傾けるということかもしれません。

できることというのは、実は遠くにあるのではなく、身近な小さな行為にどれだけ大きな真心を籠めたかというものによります。大切なものをすべて大切にしていくのは、大変な積極実践が求められますが怠らずに歩みたいと思います。

新たな挑戦~原種の旅~

昨年は、稲が穂イモチ病にかかり収穫がうまくいきませんでした。今年は古代米(紫米)に挑戦しています。この古代米とは、稲の原種である野生稲の特徴を受け継いでいる米のことです。

もともと野生型の稲の種子は褐色や黒紫などの色がついているものが多いのですが、人が栽培することによって無色(白色)の種子へと変化していったと言われています。

このことを「栽培化」といって現在の稲は、この栽培化によって白く粒そろいで栽培しやすい性質になってきたとのことです。野生化と栽培化の差とは、どのようなものでしょうか。その差を看取る予定ですが違いを視るより同じものを探したいと思います。

以前から野生種をそのままに育ててみたいという気持ちもあり、今回は野生種を野生種のままに育てていくための挑戦を自然農の畑で行う予定にしています。

畑の一部に、水が溜まっている場所があり、その場所をうまく活用してそのまま野生で育ててみるときと、庭のビオトープで栽培しているものと比べてどうなるかも見ものです。

昨年の失敗を、今年のテーマに換えて学んでいくということは楽しいことです。ちょっとやそっとではへこたれないというものは、稲や米、その他の野菜と同じで、曲がりくねっていても最終的には天に伸び、実をつけ、種になるのが自然です。

自然農では、曲がっていた方がより生命力が強いと言います。曲がりくねるのは、思った通りではなく順応してでもへこたれないで諦めないで遣り切ったいのちがそこにあるからでしょう。

今年の古代米は、原種と栽培種というものを考える上で興味深い時間を過ごせそうです。

古代米は、一般に、生命カが極めて強く、荒れ地で無肥料・無農薬でも丈夫に育ち、干ばつ・冷水などにも強い性質を持つと言います。

そもそもの姿から、現代の姿を学ぶことは、種のグレートジャーニーを味わうことです。久高島に訪問してルーツを辿った旅も、今年の挑戦で実になっていきます。人生にはまったくの無駄がない。それを感じつつ、新たな挑戦を楽しみたいと思います。