自然からの学び~共有財産~

自然農に取り組む中でまた新たな発見がありました。

自然に合わせて他の植物と野菜の共生に任せて見ていると、生長期を共にするものを仲間としその伸びる速度や高さ、その育ち方にまで影響をし合うことに気づくのです。

例えば、高さでいえば、周りの高さに負けないように自らを上へと伸ばし太陽の光が届くところまで高くなるのです。そうなると周りのものも同時に高くなるため、全体的に高くなるのです。もちろん、もともと背の高いセイタカアワダチソウやトウモロコシなどはかえって周りが低いと低いままですが、周囲が高くなると高くなるのです。

高さというものは、周りの高さによって変化するものだから周りの高さをどのように保障してあげるかでそのものの持っているものを引き出せるようにも思います。全体を高くしていくということは、伸びる力を引き出していくということです。

他にも混植をしていく中で、急成長する植物の音を聴いてはその音に沿って伸びているようにも思います。身近なものをみて、身近なものの生長の様子にあわせて自分の場所を確保していくというものです。

生長の豊かな状況の中に、種を置いてあげれば次第に周りから学んで伸びていきます。そのものに毎回、肥料や水、農薬をかけずとも、周りに元気な草花が自生していればそこから自然の中で生きる智慧を学びながら育つのです。

不思議ですが、自然は常に周りの環境から学び育つものです。ここに引き出し方のコツがあるのです。周りとの共生から学ぶという、自然の学び方があるのです。自然は教えずとも学ぶという根拠は、常に周りから学ぶということが自然そのものの本来の学び方であるということです。

多品種多目種であることが周囲を元気にするのは、それだけ育ち方や取り組み方にそれぞれの伸び方や生え方があり、それを通して智慧を自らのものにしていき生長を揺るぎないものにしていくのでしょう。かつての季節や気候、土壌でそのものが得た智慧を共に学び合いながら共生するということにそのいのちが生きてきた智慧を共有するのです。

周りによって自らが学ぶというのは、自然の学び方の一つなのでしょう。周囲を多様にしていくことが、生きる智慧を引き出す方法です。

生きる智慧とは、共有財産のことです。それをシェアできるとうことが真に豊かな協働共生する社会の創造になるはずです。子どもたちのためにも、自然の新たな発見を実践を通じて、一つ一つものにして具現化し、それを世の中へ還元していきたいと思います。

 

知ると分かるとは

物事を知るということは大変難しいことです。そしてそれを分かるようになるのはさらに難しいことです。

例えば、物事を知るというのは簡単に分かったから知ったというわけではないことがわかります。表面上のところだけを頭で理解していることと、それをどれだけの深さで受け止め受け容れ自分の体験や経験で知るというのは一緒の意味ではありません。

情報化社会の中で、頭の中で別の世界を持っている人たちが増えています。バーチャルとリアルがごっちゃになり、この知るということができない人たちも増えているのです。

知るということは、「経験を積む」ということです。その経験を積むというのは、こういうことだろうと単に知ればいいわけではありません。本来の知るというのは、そこから全世界の問題を見抜いたり、物事の本質を掴み取ったり、その知ったことから自分の世界での真の役割を見出していくことや、世界の苦しみを共感し自分を磨いていくこと等々、知るというのは自分の中で真実を知るということなのです。

そして分かるというものが何かといえば、これらを「受け止め・受け容れる」ということなのです。ちょっと知っただけで分かったとなるのは、真に経験を積んで実践をしているのではありません。それは単に知ったことを分かった気になっただけなのです。

分かるという行為は、大変難しいもので分かるというのはそのものの問題をありのままに受け止め、自分の我をも捨てて受け容れたときに分かったと言えるからです。分かった気になっているのではいつまでもバーチャルの世界から抜け出せません。現実を受け容れるというものは、全ての問題に逃げずに直視する必要がありそれをしてはじめて分かることができるからです。

ひとたび、真なる知ると分かるができればその人はそこから自他一体の共感、そして理念の実践、伝道していくことの3つのことが開始するのです。

世の中を変えたいと願う心は、以上の3つの実践に必ず辿りつくように今では思います。物事を知り分かるためにも、本当のことを知るための真摯な精進、本当のことが分かるための本気の内省を継続していきたいと思います。

夢と目標=利他と御蔭様

昨日、今年度初のGTセミナーが開催されました。

子どもの主体性や自発性を見守ろうと志した方々が全国から一同に集まります。いつもは、個々の園で関わることが多いのですが全国にこれだけ真剣に保育を考えて考動している人がいるということは本当に励まされ元気を頂けます。

よく考えてみると、人は夢とか目標とか自分のことばかりを考えるものです。自分が自分がと自分の我を通そうとすればするほどに、余計に本質から遠ざかるもののように思います。

しかし誰かのためにや、本気で自分を活かしてくださった人たちへの感謝を思い、その恩義に報いるために今与えていただける機会を一つでも多く自分を出し切って誰かのために尽くしていこう、貢献していこうとした先に本来の夢や目標というものに出会うのではないかと私は思うのです。

最初から夢も大きかったわけではなく、目標も高かったわけではありません。未知なものに思いを馳せることも自分のやる気の持続やモチベーションの高揚にはいいのですが、実際は人は心の奥底から込み上げてくる勇気の源泉は今、御役に立てると自分自身で感謝を実感するときにこそ出てくるように思います。

自分の存在が誰かのためになるのなら、役に立ちたいと願うのは大義です。どうやったらその人が今、もっとも誰かの御役に立つようにできるかに導くのがリーダーの使命のように思います。

つい、傲慢になり感謝を忘れてしまうと自分のことばかりを優先したり、自分が考えていることばかりに囚われてしまいます。しかし、これもすべて御蔭様だと実感すれば謙虚に物事を正しくしていくことができるのです。

つい自分がここまでやっているのだからとか、なぜ自分が理解してもらえないのだろうとか、自分のことばかりを考えれば自分が自分我とまた自我に囚われます。それはエナルギーが自分に向けられることで苦しく不毛な日々に変わります。しかしそんな自分のことなど忘れて、大切な目の前の人の理想や夢を叶えようと自分を無くして自分を尽くすほどに真心を籠めて行動したときはじめてその自我が消え穏やかな本当の自分に出会うようにも思います。自分の夢ではなく誰かの夢に協力し貢献するときこそ本来の自分が発揮できるという人間の真実があるのです。

実際は、夢や目標とは自分が先ではなく誰かの御役に立とうとすることで出逢うものなのだからかもしれません。自分の10年をふり返ってみても、今回、会場に来たような先生方、園の方々、またそれを実現したいと願う役員の方々、またリーダーが願う夢を私も叶えたいと真摯に取り組んできただけのように思えるのです。

自分の夢や目標は後回しにしてでも、不本意なままに矛盾を抱えては歩んできたこともありましたが、結果を観れば本当の自分が心に描いているような善い人生を歩ませてもらっていると心から感謝できるのです。自分のことよりも目の前のお客様のためにと尽くしてきたから今の自分があるのかもしれません。

何か自分の人生に不満や文句があるときこそ、人は夢や目標を追いかけてしまうのかもしれません。人生が満足しているのなら、妄想は要らず夢や目標は常に今への感謝からいくらでも実感できるからです。

子どものためといいながら、子どもの御蔭で自分があるということの事実。誰かのためといいながら、実はその誰かの御蔭で自分があるという現実。そう思えば御蔭様、御蔭様と生きていく人こそ、真に夢と目標を語れる感謝の人だと私は確信しています。

人間は生涯において利他に生きる人が夢を持ち、そして御蔭様でと感じる人が目標を得るのだと思います。生きている時間をどう使うのかは自由です、己の野望と他人様への思いやりのバランスは今の選択の集積が決めるように思います。

会場の先生方は、みんな夢や目標に向かう希望と笑顔に溢れていました。自分のやりたいことよりも自分を遣る事の方を構わず実践するというその勇気。

人のために働ける今に感謝できるということは、何よりも素晴らしい実践だと思います。何事も、来たものを素直な心で受け止めて学び直していきたいと思います。

柔軟必要性

どの時代も、時流があり、いくら昔正しかったと言っても同じことが起きているわけではありません。なので何かの真理を掴んだとしても、今の時代に置き換えて咀嚼したものを提供していかなければ先覚者がいくら認めた言葉であろうともそれを活かすことはできません。

今の時代は、たくさんの本が流通し真理や法則は出回っています。

しかしそれをカタチにしようとするならば、今の時代なら何をすることがその真理や法則を行うことになるのかというのは自らが気づいて具現化していく必要があるように思うのです。

例えば、吉田松陰の松下村塾では常に先生が生徒に、現代ならばこれはどういうことかということを生徒に投げかけてそれを議論したとあります。これも、大切なのは真理に従うのではなく自らが真理を体現せよとの教えがあるように思うのです。

今のようにスピードが速い時代には、常に新しくしていくことが必要です。ちょっと前のことがもう古くなるという意識の変化の波の中で、かつてのようなことを同じようにやっても、かつての本質が維持できるものではないからです。

常に本質を維持するには、カタチを変えて現代に合わせていく必要があるように思うのです。その時代時代に、人が顕われてくるのはそうやって道は変化しその変化にあわせて新しい人が必要になるからです。

世代が変わっていくのも、新しい人たちが新しい時代の本質を維持していくからなのかもしれません。そうしてそれは、それぞれの役割や役目を全うせよとの天意のようにも思います。

循環していく社会の中で、ちゃんと役目があるからこそ自らがその役目を前の人から受け継ぎ改善して適応させていくという自立があります。気づきを正しく咀嚼するということは、その真理は今なら何をすることがそうなのかを考え切るということです。

常に本質的であるには、自分の方のズレを修正していく必要があります。それは中心をどこにするのかに似ているようにも思います。

初志貫徹することは、決心していますが時代を観て自分の方を柔軟に変化させていきたいと思います。

 

心の訓練

心の訓練というものを考えてみます。

心というのは形がありませんから、どこにあるのだろうかと思われるものです。自分の心、自分の感情、真底から丸ごとの自分とは何かということを知らない人の方が多いと思うのです。

日常で心が摩耗していくとき、その本心がどこにあるのかがふと自分でも分からなくなるということは往々にして起きる事のように思います。私自身もいちど心が迷い、ざわつき、執らわれてしまうと、自分のことが分からなくなってしまいます。

そしてそのように自分が分からなくなれば、真心も分からなくなるのです。そんな時、私は他人の御役に立てるように真摯に自分の誠を尽くして本来の自分を取り戻します。

かんながらの道を歩む中で気づいたことがあります。

この真心というものは、あるがままの心でいるときに顕現しているということ。
そしてそれは、本心のままに生きている自分のままでいるということでもあろうと思います。
生まれたての赤ちゃんの素直な姿でいつまでもいるようなものです。

時折、素直な姿に心が洗われるようなときも心は澄み渡っていきます。
人の本心や本音こそが禊になり穢れを払っていくのです。

また同様に真心は、感謝のときにこそ顕われます。

つまりは、至誠神の如しと言われるように「まこと」の姿そのものが自然なのです。

心とは何か、「心の本体は感謝」なのです。

自然でいるということは、常に心を澄ましていることが必要です。
自然体とは、感謝体になっているということです。

そしてそれは日々の感謝の実践によって得られるように今では確信しています。

人格を練磨することに時間をかけて日々に修養して良知を学び直してシンプルにしていくことが人生の大目標なのかもしれません。ここでの良知とは、本来の全ての関わりと出来事に感謝し、澄み渡った感謝の情愛を自分の真底から引き出していくようなものです。

それに気づく機会は、いつも人間関係の中で得られています。

これからも諦めず、直向に心の訓練を実践し、生まれてきた世の中を生まれる前より清々しくしていけるように様々な出来事に正対し受け容れ、感謝に転じていきたいと思います。昨日も大きな学びがありました。まずは実践ありきで、何事にも子どものように素直に取り組んでいきたいと思います。

今日は七夕です。

「笹舟の 流れる河に 満ちてくる 心の音色 澄みやかにきす」 藍杜静海

真心を有難うございます。

人間の道

昨日、致知出版社の方が来社してくださって一緒に社内木鶏会を行いました。この社内木鶏会とは、人間学の本、「致知」を使ってそこから気づいたことを一緒に学び合う勉強会です。

もうこの社内木鶏会もはじめて6年半ほどになりますが、もうそんなに経ったのかと懐かしくなりました。私たちが始めたころは20社くらいだったそうですが今では800社にもなったとのことで感慨も一入でした。

最初の出会いは6年半ほど前、致知出版社がまだ青山にあるときに社員皆で訪問し藤尾秀昭社長にお会いしたときからです。お時間がないと仰っていた中、若い私たちにホワイトボードを使って2時間以上も親切に人間学のことを情熱を傾けてお話をしてくださいました。

その時の情熱の燈火をそのままに継続してきた今までであったように思います。私達の身のまわりにも随分、致知を購読する人たちも増え、その出会いの素晴らしさ、その感動した学びの邂逅はいつになっても心に鮮明に思い出すことができます。

生き方を通して人は、人生を学び、そして互いに活かしあって伸ばしあっていく人間の道を人間学という言葉を通じて教えてくださったこと心から感謝しています。

またちょうどここ1か月ほど、深い悩みがあったのですが昨日の突然の致知の社員の方の来社で解消することができました。継続すること、実践することがテーマの記事で昨日は社内木鶏会を行ったことも意義があったように思われます。

思い返せばあの当時、致知がちょうど月刊発行部数が6万冊くらいだとお聞きしていました。そして、この致知の部数が10万冊にいったら日本が変わるというお話をしてくださったのです。

この10万冊で日本が変わるという話は、教育者、森信三先生が亡くなる少し前に藤尾社長にお伝えになったというお話です。それから6年半、今の部数を確認したら99600冊まで来たとのことをお聴きしました。

あと、400冊というお話をお聴きした時、本当に嬉しくそして励まされ勇気をいただきました。続けていく中で、いつも10万冊にいついくのだろうかと気になりながら拝読してきました。その中で、新春セミナーの様子や、周りの取り組み、致知から出版される本もいくつも購入する中で、いつの日に10万冊なのだろうかと思っていたからです。

それがあと少しだとお聴きし、心躍る気持ちと、勇気を奮い立たせてくださいました。諦めずに続けて実践していけば、必ずその時が来るという実感です。それまでのプロセスそのものが、成功なのだと改めて実感しました。

10万冊いくことが問題ではなく、10万冊に辿りつくまでの全てが世の中を変えることになるのだと思えるからです。実際は、目に見える成果は儚いものですが1000年単位で物事を捉えれば、大きな変化、普遍なカタチが顕現したことが観えてきます。

偉大な循環の中で、自らの真心の一燈を確かなものにしたというのはそれだけで大変尊いことだを思います。このタイミングでお聴きできたこと、来社いただいたことに有難いご縁を感じます。

ちょうど色々なことで自信を失いかけそうなとき、やはりいつも身近に励まして下さる方々いらっしゃるということ。何よりも感謝します。そして天がその機会をいつも私達に与えてくださっているように思います。応援し励まされそして前に進む、人は互いに元気を出せと肩を叩きながら背中を押しながら歩むのが人間の道なのかもしれません。

出会いが人を創る、そして道が出逢いを開くということです。

一期一会を実践できる今に心から感謝します。

 

夢とは何か

人は夢を持っています。

自分がこうなりたいとかこうしたいとか、夢は膨らんでいくものです。実際の人生では、自分の思っていることよりも思っていた以上のことが起きて夢を諦めないで善かったと思うことが本来の夢そのものであるのかもしれません。

叶ってしまうような夢ならば夢ではないというのは、夢とは追い求めていくときこそが夢であり夢を持つというのは全ての今は夢の途上であると向かうことに意味を見出しているときだからです。

先日、夢についてイエローハットの鍵山氏と伊那食品工業の塚越氏の対談の著書「幸福への原点回帰」(文屋)にてとても共感し感銘を受けた文章があります。夢を追い求める人達へのエールになると実感しました。ここにはこう書かれています。

「どんな人でも、成長の過程で、何らかの夢をもつと思います。しかし、多くの場合、この夢が途中でなくなってしまうようです。これは、夢が逃げ出していったわけではありません。自分が夢から逃げ出したということです。これはとても残念なことです。夢に向かって重ねていく努力というのは、なかなか「これだ」と成果を確認することができません。簡単に成果を手にすることができるなら、おそらく多くの人が努力をし続けると思いますが、どれだけ努力を重ねても、近づいている実感がもてないものです。やがて、その努力を続けることがむなしくなり、はかないと思うようになります。そこでいやになり、もうやめてしまおうかと考えはじめてしまったら、それは自分が夢から逃げているということです。」

夢というものは、逃げないことで夢に向かうという意味なのでしょう。そしてこう続きます。

「私が会社で掃除を始めてからも、長年の間には、むなしい気持ち、はかない気持ちに襲われたことが数えきれないほどありました。一貫して希望に燃えていたわけではなかったのです。ほんとうにいやになり、やめてしまおうかと思ったこともあります。しかし、やめませんでした。「もうやめようか」という考えが湧くたびに、私は同じ結論にたどり着きました。それは、「昨日までの努力は、捨てるには惜しい努力であった」ということです。よしんば、昨日までの自分の努力が、いつ捨てても惜しくないものであれば、あっさりと投げ出したかもしれません。しかし、ここでやめてしまったら、昨日までの努力が無駄になると思ったとき、ふたたび心が奮い立ち、努力を続けることができました。」

そして鍵山氏は、若い人に「捨てるには惜しい努力、自分自身で納得できる努力をしていっていただきたいと思います」とエールを送っています。

この著書は素晴らしい名著で、今の時代の真摯に生き切ろうとする経営者の人達のバイブルになるものであろうと思います。

夢を持つというのは、向かい続けるということ、向き合い続けるということです。それでも逃げずに向き合っているならば、必ず夢は向こうから顕われてくるものだと私は思います。

信じるということは、今の自分が夢に向かっていると納得できるほどの努力をしていることだと思います。それまでやってきたことが、捨てるには惜しい努力であるか、そこに今を生きるという夢の本質があるからです。

何も手に入らなくても、この瞬間、生きている実感、感謝しかないと覚える今が夢そのものの真の価値なのかもしれません。そして人生の夢とは素晴らしい記憶に包まれている今に酔いしれて、味わい噛み締めているようなものです。この瞬間が儚いからこそ、永遠に感じるからこそ、いつまでも諦めないで続けていこうと思います。

未熟でガキで我儘なこんな自分を、耐え忍びて志に転じることで芯の強さに換えながら自らを磨き抜き、その本懐を遣り切りたいと誓います。

遣り甲斐と幸せ

自分の仕事の価値がどれだけのものかを知るということは大変な意義があります。

先日、もうコンサルに入り7年前になる園の職員取材の中で私たちと一緒に取り組んでいる実践をどう思うか尋ねるとその価値を大変高く実感していることをお聴きしました。

例えば、ブログの配信一つでもそれに自分の存在価値があるとし真摯に徹底して実践をしている姿に若いながらも将来の偉大な可能性を実感しました。何をやったかではなく、その意味やその価値を知る者こそが目標を大きく超えていくように思います。

仕事の価値を知らないということは、遣り甲斐を感じないということにもなるからです。遣り甲斐というものを辞書でひくと【やりがい(遣り甲斐)とは。意味や解説。そのことをするだけの価値と、それにともなう気持ちの張り。「―のある任務」】(goo辞書より) とあります。

つまりは自分の行っていることの本当の価値を自らが自覚しているかということに由るのです。

人は何をするにも、その価値を知って行うのと知らずに行うのは異なります。これは凄い仕事だと思って実践する人と、単なる業務の一環として取り組む人では仕事の価値が分からないのです。

この保育者も今まではそういう仕事ではなかった体験があったからこそ、新しく取り組む仕事の価値を知り、実感しているのです。いつも恵まれている人は、本当の仕事の価値を知るはずもありません。一つの実践を生み出すまでに、その裏に隠れた問題意識や危機感、哲学などがカタチにしていくのです。

遣り甲斐というものと等しく生き甲斐というものがあります。それを表現するのに、日本理化学工業の大山泰弘氏の紹介している言葉があります。

「人間の究極の幸せは、「人に愛されること」「人にほめられること」「人の役に立つこと」「人から必要とされること」の4つです。働くことによって愛以外の3つの幸せは得られるからです。」

生き甲斐とは幸せになることで、幸せとは愛されること、褒められること、必要とされること、そしてそれは誰かの役に立つと自分が実感して取り組むことだと思います。もっと自分を出し切っていきたいと、誰かのお役に立ちきっていきたいといった貢献意欲は自分の内面から開花させていくものでそれがヤル気、活き気になっていくように思います。

この程度の仕事と割り切っていく仕事ではなく、まさにその仕事の価値を自分で見出していくような仕事こそ、尊い仕事、楽しい仕事、遣り甲斐のある仕事になるように思います。仕事とは、何をするかではなく、どうあるかということに尽きるのです。

若い頃の自分の自他問を繰り返して鬱陶しがられていたことを思いました。

「この仕事は何の役にたちますか?何のためになりますか?」

当たり前に胡坐をかかないように真摯に実践を楽しみたいと思います。

 

共異共感

先日、ドイツでの視察に行った際にある保育施設でハンディを持つ人たちの立場に共感するために車いすの体験や、歩行具の体験、生活の中で自分たちと異なる人たちの気持ちに寄り添うような工夫をしているのを拝見しました。

私は、軽度発達障がいの子どもがいて当たり前という人の偏りを肯定するためのソフトを開発しましたがその際にも大前提は自分と異なる人のことを否定せずに、分からないのだから歩み寄って理解しあおうという考えに即して創りました。

人は何を持ってハンディかというと、人間がそれぞれ求める幸せを何かの柵や刷り込みで実現できないことです。本来は、どんなハンディがあっても人間は人間らしく誰しもが平等に生きる権利があるのです。それを最初から諦めてしまったら、それこそが歪んだ概念でその人のことを違うのだからと仕分けてしまうのです。

集団を優先し、経済を優先し、世間一般の数の論理で管理していく社会を優先していけば、そうではない人たちはとても大きな障壁ばかりを乗り越えながら歩まなければなりません。強いものが弱いものを思いやる、そして弱いものがあるから強いものが優しくなれるような社会にしていくことが本来の福祉の醍醐味ではないかとも思います。

人は共感して、自分と異なる存在であると理解するときはじめて違いを超えた存在に思いやりが持てるようになると思います。自分と同じだということを思い込んでしまえばいつまでも自分に合わせようとさせるばかりで共感することが難しいからです。

あのアインシュタインに、「誰もが天才なのに、魚を木登りで評価したら、魚はバカだと思い込んで一生を過ごすことになる。」という名言も残っていますがこれもそれぞれがそれぞれに持ち味がありそれを活かすことができれば天才だということです。

違いと異なるでは意味が変わります。

違いは自分との違いや何か基準を設けた違いだけを評価するのに対して、異なるというのはそのものを全肯定全受容しそのものの価値を丸ごと評価しているのです。

異なることは善いことで、異なりがあるというのはそれだけ多様な人たちの役割が必要になりみんなが幸せに活きられるチャンスを得られるとうことだからです。均一で画一な集団では、自分の役割まで競わなくてはなりませんし蹴落とさなくてはなりません。しかし互いに思いやれる優しい集団をめざせばハンディというのは周りを幸せにするように思います。

今のような時代、風穴をあけるのはこのハンディへの共異共感かもしれません。
常に人間として大切なものを見失わないように、新たな実践をはじめたいと思います。

器というものがあります。どれだけ何を容れるか、それは器にもよるものです。器と言えば、料理の御椀から植物の鉢、その他、人間の器などというところまで様々です。

特に人間の器というものは、いくらでも変化させることができその器の価値は何を容れて何を与えるかによるもののように思います。例えば、自分のことしか考えられない我儘なときほど器の小ささを実感してしまうものです。自分の執らわれている何かがいつまでも手放せず、頑なにそれを固持すると器が小さくなっていく感覚を得ます。

自分のことしか容れない器など、取るに足らないものでそんなものでは自分以外の世間のものを容れる余裕もありません。本来の余裕とは、自分の器をどのように使っているかというものかもしれません。

またその器の中のものから空っぽにしていかないと次のものは入りません。

自分の器を何かに役立てるなら器のものを誰かのためにいつも使ってもらわなくはなりません。それは自分の方から言えば誰かに与えていかなければなりません。与えるということは、自分のもっているものをどれだけ誰かのために役立てているか。

それは智慧でもよければ笑顔でもいい、心の配慮でもよければ、思いやりのある言葉でもいい、誰かのために「与える」ということをしていけば器が私器ではなく公器になっていくのです。

また逆に自分の器ではないと頑なに選び、そして偏れば器は自分の思いで一杯になり、何かをしてもらおうとばかり考えたり、なぜ自分だけこんな目にと思ったり、ここまでやっているのにといった与えるよりも「奪う」発想になってしまうのです。この与えるとは反対にある奪うというものは、自分の器に容れるものを自分で決めてしまっているときです。

何でも善い、自分にできることがあるのならば与えられるものがあるのならば使ってくださいと言う謙虚な心には偉大な器が存在します。しかし自分の器はこれしか入らないとか、自分にはこれが向いていないとか自分が活かせないのは何かのせいとか言い訳をするならば、そこに傲慢な心が発生し器が壊れてしまうように思います。

器というもの、寛容力というものは何とかしようという意固地になるのではなく与えようと思う真心からできあがるものが美しく清々しいものかもしれません。器は大きいとか小さいとかではなく、どれだけ器としてのお役目を果たそうとしているか。世の中や誰かのために自分の器を使ってくださいと言う謙虚な気持ちで自分を使えるかに懸かっているようにも思うのです。

器を常に清浄にしていくことは、与えるものを清らかにし、容れるものも清らかであることがいいように思います。それは言い換えれば様々な御恩に感謝し、自分の体験した全てのことを誰かの御役に立てて貢献するという実践のように思います。

どんなに自分の心、身体、精神が病んで苦しくても、体験を通していつの日かこの経験が誰かの御役に立つと信じる事で報われる日が来ると器に感謝していくことかもしれません。他人の気持ちが分かる優しい人というものは、深く相手に共感をして全てを丸ごと受け止めることができる人のように思います。

そういう人を、人は器の大きな人と呼ぶのでしょう。

一見、地味で目立たない器ですがその器があるから生きものたちが活動できるということを忘れないでいようと思います。