器というものがあります。どれだけ何を容れるか、それは器にもよるものです。器と言えば、料理の御椀から植物の鉢、その他、人間の器などというところまで様々です。

特に人間の器というものは、いくらでも変化させることができその器の価値は何を容れて何を与えるかによるもののように思います。例えば、自分のことしか考えられない我儘なときほど器の小ささを実感してしまうものです。自分の執らわれている何かがいつまでも手放せず、頑なにそれを固持すると器が小さくなっていく感覚を得ます。

自分のことしか容れない器など、取るに足らないものでそんなものでは自分以外の世間のものを容れる余裕もありません。本来の余裕とは、自分の器をどのように使っているかというものかもしれません。

またその器の中のものから空っぽにしていかないと次のものは入りません。

自分の器を何かに役立てるなら器のものを誰かのためにいつも使ってもらわなくはなりません。それは自分の方から言えば誰かに与えていかなければなりません。与えるということは、自分のもっているものをどれだけ誰かのために役立てているか。

それは智慧でもよければ笑顔でもいい、心の配慮でもよければ、思いやりのある言葉でもいい、誰かのために「与える」ということをしていけば器が私器ではなく公器になっていくのです。

また逆に自分の器ではないと頑なに選び、そして偏れば器は自分の思いで一杯になり、何かをしてもらおうとばかり考えたり、なぜ自分だけこんな目にと思ったり、ここまでやっているのにといった与えるよりも「奪う」発想になってしまうのです。この与えるとは反対にある奪うというものは、自分の器に容れるものを自分で決めてしまっているときです。

何でも善い、自分にできることがあるのならば与えられるものがあるのならば使ってくださいと言う謙虚な心には偉大な器が存在します。しかし自分の器はこれしか入らないとか、自分にはこれが向いていないとか自分が活かせないのは何かのせいとか言い訳をするならば、そこに傲慢な心が発生し器が壊れてしまうように思います。

器というもの、寛容力というものは何とかしようという意固地になるのではなく与えようと思う真心からできあがるものが美しく清々しいものかもしれません。器は大きいとか小さいとかではなく、どれだけ器としてのお役目を果たそうとしているか。世の中や誰かのために自分の器を使ってくださいと言う謙虚な気持ちで自分を使えるかに懸かっているようにも思うのです。

器を常に清浄にしていくことは、与えるものを清らかにし、容れるものも清らかであることがいいように思います。それは言い換えれば様々な御恩に感謝し、自分の体験した全てのことを誰かの御役に立てて貢献するという実践のように思います。

どんなに自分の心、身体、精神が病んで苦しくても、体験を通していつの日かこの経験が誰かの御役に立つと信じる事で報われる日が来ると器に感謝していくことかもしれません。他人の気持ちが分かる優しい人というものは、深く相手に共感をして全てを丸ごと受け止めることができる人のように思います。

そういう人を、人は器の大きな人と呼ぶのでしょう。

一見、地味で目立たない器ですがその器があるから生きものたちが活動できるということを忘れないでいようと思います。