人間は大切なことを忘れてしまう生きものと言えます。
例えば、初心などもそうですが最初如何にそれが大切だと理解していても日々に流されていく中で次第に考えなくなりそもそもなぜこれをやるのかという理由すらも思い出さずにマンネリ化していくものです。
他人が言った言葉でもそれが自分のものになるまで一つのことをじっくりと時間をかけて自分で考え抜いたり、考え抜いたことを行動したりすることで自分の考えになったとなるまでやることではじめて本来の自発性が働き取り組んだといえます。
しかし誰かに言われたことをただ鵜呑みにして、それをやればいいのだろうと自分の頭でその意味や本質を考え抜かなければ次第にそれはその人の考えに単に従ってやっていることになり、自分自身が決めたことではなく誰かに依存して続けてしまっていることになるからです。それでは面白くなくなり、自分がやりたいことが分からなくなるのです。
何かを誠実に続けるには、自分が物事と常に正対し続けるという本質を伴います。
だからこそ自分が決めたことを自分がいつまでも決め続けるというのが初心を忘れないということです。一旦決めたからとそれでいいわけではなく、決めたらそれが最期まで決め続けたままにしなければならないのが本来の実践です。
しかし毎日の繰り返しの中で、慣れてきてしまうと何となくやることが先になり、そもそも何のために行うのか、なぜそれはやろうとしたのかということは後回しになっていくから忘れるのです。
日々に新しくならないのは、やり方を覚えてしまってそれに落ち着こうとするからです。脳が考えるのをやめたがるからです。だからこそ単にやることが続くことが良いわけではなく、正しく実践し続けることが善いのです。
その人の考えであっても自分の頭で考えてそれを自分のものにするというのが学問です。
例えば、何かの気づきがありやってみようと思ってはじめた日々に行うお祈り一つであってもただ単に手をあわせているだけでそこに心が入らなければ何のために祈るのかを忘れてしまうものです。だからこそ、大変でもそもそも何のために祈るのかと常に初心を毎回思いだし、自分で考えを深めて今此処に心頭身一体に定めて行動しなければ最初の定義した意味から次第に外れてしまうのです。
本質というものは、毎回何かを取り組む前に自分の頭で考え抜き、心で定めたところを思い出し常に初心を忘れないようにしなければ辿りつきません。
言われてからやるとか、頭で分かったところでやるとか、それは考えないことでラクにはなりますが、そのラクこそが遣り甲斐や生き甲斐などを見失い、受け身になり楽しくなくなる原因になっているのです。
考えずに流されてしまう毎日ではなく、自分から考え抜いてでも流れに乗って味わっていこうとするのでは同じ旅路であってもそこに一日の充実があるかどうかが決まってしまいます。同じ積み上げるのならば、無機質に積み上げるのではなく、大切に積み上げていきたいと願うのが自分の人生です。
それに周りにあわせて他と比較して生きるのはラクですが、本来の本懐のままで自分を遣り切ることこそが人生の醍醐味であろうと思います。今に生き切るというのは、なぜこれをやるのかを常に自問自答し自分の頭で考え抜き続けるという実践を行うことでしょう。
「あなたは最初なぜ昔に自分がこの今の姿を決めたかの理由を忘れていませんか?」
「あなたはそもそも初心がどのようであったのかを忘れていませんか?」
常に自問自答は、自分に問いかけ自分が応えることでふり返りが正しくなります。
本当の問題は、何のためであったのかを流されて忘れてしまっていいることかもしれません。 いちいち忙しいとか疲れたとか、時間がないとか場所がないとか、ないないないないという根本がない言い訳にかまけて、自分で常に考えるのを怠らないように日々新たな実践に心を籠めていきたいと思います。
日々を澄ませていくためにも、内省を怠らずに本質に帰りたいと思います。