障害児という言葉があります。今では障害の害の字が合わないからと障碍児としています。
私は前から何を持って障害かということについては色々と自分で調べてきました。誰が言いだしたのか、そして本当にそういう意味かということをです。
かつては「障礙」とか「障碍」と書いていたものが戦後の漢字制限で「礙」「碍」の漢字が表外漢字になってしまったため、「害」という漢字を宛てて「障害」と書くことが広まったということや、また保育施設などに補助金を出すためには特別な子どものための費用とはできず、障害児だと出せるからという理由で省庁の担当者が名目をそうしたこと、ほとんど本質的ではない安易な理由でその言葉の定義が書き換えられたことに憤りを覚えたものです。
その後はヨーロッパへ視察し、保育現場で問答したときも日本で使われる障害という意味と世界で使われる障害という意味が異なることも知りました。大前提で使われる人間の尊厳や人権という言葉の意味も日本とヨーロッパでは使われ方が異なります。子どものためにという言葉も、大人主体で使うか子ども主体で使うかで異なります。
先日のドイツ視察でも、向こうでは障碍児のことを天才児であると定義していました。例えばIQが高い子どもも障碍児ですし、アスペルガーやLD児と呼ばれる子どもたちも障碍児、もしくは非常に何かに突出した能力を持つ子どもも障碍児ということで天才をつぶさないようにと丁寧に配慮します。
しかし海を渡って日本の現場を見ての認識は、普通のことができない子ども、何か病的なものを生まれながらに持つ子、気になる子というような何かネガティブな意識を持っている人が多いように思います。天才から問題に換わるのです。
だから配慮の仕方も、天才を扱うのだから天才に接するためにどうするかという配慮の考え方と、問題を扱うのだから問題に接するためにどうするかという配慮の考え方という配慮する側の考え方に相違があるのです。
そもそも動物と話ができるとか、直観的にイメージで理解するとか、透明なセンスを持っているとか、心の世界を映せるとかいったことは、その人の役割や天命から生まれながらに必要だと自分に持たせている能力です。それはその人の徳が、世の中の役に立てるようにと自らが選んで発達しようとしているものです。
それを阻害するのは何かといえば、周りの人たちの刷り込みではないかと私は思うのです。矢印を相手へではなく自分へと向けてみれば、平均的ではないものを普通ではないとし、それをネガティブに捉えるか、それをポジティブに捉えるかは、社会を形成していこうとする私達大人たちの生き方、あり方、工夫が常に問われているだけです。
思いやりのある社会を創ろうとしたら、そういう多様な能力を持った人たちがそのままでもいい環境を創りだそうとすることが本当の豊かさにつながっているはずです。
障害になっているのは、子どもの方ではなく、自分自身の先入観や固定概念が障害になっていないかと内省することこそが配慮の本質ではないかと私は思います。異なっている能力そのものを引き出し、認め、活かそうとすることに社会の真の価値があるように思います。
障碍児については全ての子どもが天才だと配慮していくことが、私たち大人の固定概念を取り払うことになるのでしょう。気になる子がたくさんいるということは、それだけ天才児がたくさんいるということです。そして天才が良い悪いではなく、普通が良い悪いではなく、ただその天が与えた才がある、そして人にはそれぞれお役目という差異があるのだと認め、大切にしていくのが自然の見守りと同じような視点の姿勢に立ち返ることです。
多様な自然がイキイキするように、それぞれの役目という持ち味を活かすためにこの障害という先入観と言葉の定義そのものを発達を通じてひっくり返していこうと思います。ミマモリングプラスの、差異分析も、天才児の意味もそこに籠められています。