昨日は、瑞厳和尚の話を書きましたが日々の中で常にどれだけ誠実であったかということは全ての教えの本筋に中るように思います。
昔、論語の大学に「小人閑居にして不善を為す」とありましたがあの意味を暇になってしまうとつまらない人はすぐに良からぬことをするという意味かと思っていました。しかしよく実践を省みているとそうではないことに気づくのです。
あれは、暇になると全身全霊で真心を尽くすのを怠り、誠実であることをしなくなるという意味ではないかと自明したのです。つまりは、人は頭が良くなるとつい計算してこうだろうとかああだろうとか脳で考えるだけで、心、体、意を一体になるほど命を懸けて何かに取り組もうとはしなくなるものです。
常になるべく動かなくても善い方法、大変ではない方法ばかりを選択しはじめ、自分にとって不利にならないようにとか、自分の都合のことばかりを考えだし、自力を出し切らないのです。言う換えれば真心であることよりも、こんなものでいいだろうといった打算や妥協が入ってくるのです。
つまりやることがないことが続く時、もっとできるのに遣らないときにこそ人は不善になりやすいということなのです。大学にはそれをこう書かれています。
「所謂其の意の誠なるとは、自らを欺くこと無きなり。」
意訳ですがつまり感情が全身全霊であるというのは、自分を欺かないほどに実践しているということなのです。常に真心を尽くそうと、閑になって頭でっかちに計算したりしないよう、自分の心と感情と身体を一体にして考動を尽くしていけば次第に誠実になっていくものです。
誠実であれば、天道や人道の本筋に触れるので次第に善転をはじめて万事ことは運ばれていくものと思います。私の造語ですが「人事を尽くして天事を待つ」というのは、どれだけ今の自分があるがままの一体であったか、つまりは誠実で真心を使ったかということだと私は思うのです。
自分を優先せずに、常に相手のことを自分のことのように思いやる中ではじめて全身全霊は出てくるものです。それを出し切る実践を積み上げることによってのみ、はじめて己事究明も為されるように思います。
やはりどれだけ相手のために使ったかというのは誤魔化せません。常に戒めて、心配する人たちのためにも、自分が大切にしたいものを大切にするためにも、全力を出し切っていきたいと思います。
最後に大学にはこの言葉の後に二回同じ文章でこう続きます。
「故に君子は必ず其の獨を慎むなり。」
一人のときも、二人のときも、何人でいるときであろうとも、自我一にあろうと、素直で誠実であろうと努力するということだと思います。暇になるのは、暇をもてあそぶのは全力であることを忘れてしまうからです。
遣り切る先にこそ真の自我一の覚醒はあると信じます。すぐに人は自発でなければ流されるものですから主体を遣い切れるよう日々全身全霊であるかの自問自答を内省により大事にしていこうと思います。