日本人が発展させてきた技術には常に座右に日本の美意識というものがあります。この美意識というのはものづくりには必要で、世界中どこでも生き方を含め「美」というものを追及したように思います。
この美とは自然を直観で感じて自然を愛でる時に美しいと感じる美のことであろうと思います。
自然の中には無駄が一切ない、完全にそぎ落とされた美があります。
例えば、雲があの様相なのも、霧がかかった靄がかかるのも、雨が降るのも、突風が吹くのも、そこによく観察すると自然の美があります。そこにはやはり一切の無駄がありません。有機的にあらゆるものがつながって何かの役にたっているところに私たちは美を感じているものです。
そしてその全ての役割が切り離されずに調和した状態を合理的であると私は定義します。この合理的であるというのは、その人が繋がっている中で物を観る感性があるということです。
これを私は一石二鳥を一石百鳥、一石万鳥と一石全鳥としていく中で自然美を実感できるように思います。私が無駄が嫌いなのは、この言葉に換えれば一石一鳥ではいけないと思っているからです。
この無駄があるというのは、そこに次第に知識が増えて我が入るから無駄が生まれます。ここでの無駄というものがないというのは、刷り込みがない幼い子どもの同じ状態のことで物事をあるがままに捉えられることをいいます。
知識を得て技術を真似たとしても、そこに我を消し合理的に自然に近づけていこうとすることがなければそれは単に表面だけをなぞったことになってしまいます。本物にしていくには、表面をなぞるのではなく自分のものにしていく必要があります。それは万人に等しく、自然を直に観てそこから自分を通したものになっていなければなりません。
言葉一つであろうとも、物一つであろうとも、人生一つであろうとも、全て自分を通過させていく中で自然の浄化のようなことを自らが削り取って削ぎ落として美しくしていかなければならないのです。
水という性質が、先ほどの例えのように様々な様相に姿を変えてもそれが全体とつながって偉大な合理性を持っていることが観えるのです。それを自分の感性を通してどれだけ今の時代に合ったものをアウトプットするか、それが日本の美意識ではないでしょうか。
子どもが没頭して夢中になるような砂遊びが楽しいのも、水遊びが楽しいのも、そういう合理的なものが観えるからです。大人になれば、自然農も自然養鶏も楽しくて仕方がないのは私もその中に合理性が観えるからです。
私は、日本人の美意識は全てにおいて自然の観察によって得られたものであろうと思います。西洋文明も同じく自然から観察した技術を独自の文化で発展させてきましたが、私達日本人はより一層この美しい島国、新鮮で幼児性を保たれている風土の中でまるで幼子のように自然を観察する力を駆使して西洋文化で築いた技術に新たな息吹を加味したように思います。
この幼児性というものは、魂のことでその魂を維持していくことは日本再生のカギであると私は信じているのです。
いつの時代も私達の観察力というものは、自然を観る事で引き出されていくものです。そのものがそのものの価値でいること、そのものの価値をそのものの価値で活かすことができれば自然になっていきます。この合理性、つまり自然の観察力を磨いていくことは、日々に無駄のないところで全身全霊で生き切ってその生死の美学や美意識を高めていくことと同じです。
常に美しくありたいと願う生き方は、自然でいたいと思うことと同じです。
自然の直観力を磨いて、世界に誇るかんながらの魂を今の時代に還元したいと思います。