人は自分のことが分からなくなるとスランプになるものです。このスランプというものは、自分以外の周囲のせいにしているときに起こります。問題を自分のせいだと気づく時、はじめて人はスランプから抜け出すからです。
矢印を自分に向けきるというのは、逃げないと覚悟を決めることとイコールですから実際は口でいくら矢印は自分と言っていても実践するということはとても厳しいことなのです。
人は皆、一体自分がどういうものなのかというのは自分が一番よく分かっていないものです。いくら客観的に自分の感情や周りのことを冷静に分析し理解できるとしても、一番身近な自分の弱さがどのようなものか、そして強みがどのようなものかはそこに自分の我が入っているから分からなくなるのです。
スランプに入る時に感情に呑まれるのも、本来の自分が観えなくなっているからなのです。
本来は、信頼できる人に委ねて自分の強みと弱みを発見してそれを転じていくことでその両方を活かすこともできるのですが、本当の自分に向き合うのはいくら師や友がいても自分の問題ですからその正対も自分でやることになるのだから苦しいものなのです。
特に変化するときや、チャレンジするときは、今までの自分の認識をひとつひとつ削ぎ落としていく必要があるからどんな人でも必ずその時はスランプに陥ります。そうやって乗り越えていくことで自分の確固とした人生を生き抜く土台を築くのです。特に若さとはそういうものでしょうし、その時にどのような「心がけ」があるかで道筋が決まるのです。
話を戻しますが本当の自分がどういうものなかということを知るということは本来の自分の中に深く入っていき、そして強く探りとっていくものです。
人は環境の中で自分というものを理解します。現代であれば現代の中の自分であるし、古代であれば古代の環境の中での自分が存在するようにです。つまり本来の自分というものは、周りとのつながりの中でできている自分というものがあるということです。
しかしそれは単に外側の環境に影響を受けている自分であって本来の何からも影響を受けない根幹の自分、無中の有というものはまた別に存在しています。言い換えれば、環境に左右されることのない命としての自分のことです。
その命の元である自分がどのようなものなのか、それを向き合い認めるには限りなく素直にならなければなりません。しかし人は素直には簡単になれず、何かが自分の思い通りになると思っているうちは自分に気づくことはないようにも思うのです。
よくこの時のことを感じれば、人は思い通りにいかない中に、必ず思い通りにいかせたくないものがあるのではないかと私には思えます。つまり私には、思い通りにいかないときに思いどおりにいくのを邪魔している存在があることに気づきます。その存在というものは、本来の自分とのバランスによってそれが執り行われるからです。
自分を知るというのは、耐え忍び信じ念じる中に顕われてくるものです。長い時間をかけてじっくりとゆっくりと沁み渡るように自分のことを理解していくもの人生なのです。思い通りにいかないときの方が、自分のことをよく知れ自分のことを理解し、本来の自分と向き合っているともいえるのではないかと私には思います。
自分を知るのは苦楽がつきもので、この苦しみの中にこそ楽しみの中にあり自分がそれを望んでいるという。ここに自我一体、自我一如、正しい自己の認識を掴んでいく鍵があるように思います。
すべてにおいて楽も苦も無も有もすべて自分との正しい向き合いという実践を通じて味わっていくことでそれを学ぶように思います。
いつまでも永遠に流れる自分を知る旅は、果しない彼方の先にまで続きます。一つの旅の中でまた新たに出会った自分の中のすべてを受け容れ、その強みも弱みも日常の中でつながりに活かしていこうと思います。