二宮尊徳に報徳訓というものがある。この「訓」という字は、普遍的な教えのことでよく教訓という言い方で代々語り継がれているものです。言い換えれば、これもまた子孫を思いやる真心で創られた大切な生き方の智慧であろうとも思います。
人は一生の中でそういう教えに出会える人と、出会えない人がいます。伝承していくということは、そういう古来からの大切な日本の心を受け継いで守り次世代へと生き方そのものを譲っていくことであろうとも思います。
どんなこともそうですが、根源とか絶対とか普遍というものや自然は当たり前のことすぎて見向きもしないようなことばかりですがそこに忘れてはいけない離れてはならない叡智があります。
改めてそこに気づけるかどうかは、その教訓に触れて学び続けていくからのように思います。
報徳訓にはこうあります。
「 父母の根元は天地の令命に在り 身体の根元は父母の生育に在り
子孫の相続は夫婦の丹精に在り 父母の富貴は祖先の勤功に在り
吾身の富貴は父母の積善に在り 子孫の富貴は自己の勤労に在り
身命の長養は衣食住の三つに在り 衣食住の三つは田畑山林に在り
田畑山林は人民の勤耕に在り 今年の衣食は昨年の産業に在り
来年の衣食は今年の艱難に在り 年年歳歳報徳を忘るべからず」
今の自分があるのはなぜか、今の自分がいるのは何の御蔭であるか、そのためにその御恩に報いていこうとするのが最も大切であるということを説きます。「身体の根源は、父母の生育にある。父母の根源は、祖父母の丹精にある。祖父母の根源は、その又父母の丹精にある。こうして押しきわめてゆくと天地の大生命に帰する。そうすると天地は大父母だ。」と諭します。
これらの天地の丹精があるから、今があり、その自然の真心があって自分というものが生きているということが根源です。そういう大切なことを決して忘れてはならないからこそ報徳を実践するのだということを教えています。
日々に省みてみると、人は目先の損得や身近な利害ばかりに執着し、こういう当たり前のことを忘れてしまうことから私心に囚われ迷い苦しみを生み出していると思います。
天地開闢から今まで、私達日本人の古来の心、天地自然の神恩に如何に感謝するのかを実践で示した生き方がこの報徳訓には凝縮されています。
丹誠の徳というものをもう一度、正しく考えてみたいと思います。