真の学び

今の時代は情報がすぐに手に入るからすぐに誰かに聞けば分かるからとあまり自分自身の力で学ぼうとしないように思います。すぐに教えてくれる人に尋ねては、その答えを知ることが教わったことと思い違いをしているかのようです。

それでは全てにおいて自分で行うことであり教えられたものは学んだのではなく形式的なものをなぞり分かった気になるだけなのです。

分かった気にならないというのは、分かった気にならないために聞いたことは全部自分の人生や実践に置き換えてその事実を知るまで徹底してものにしていくために自身自ら積極的にその答えを求めては試行錯誤し掴んでいくことのようなものです。

私にも師がいて、最初の頃は色々とお聴きしますが聴いてもやっていなければそれは現場で実践したわけでもなく身に着いたとはいわないのです。一理を聴けば一理を学び、ずっと試していくからはじめてどこかの瞬間に腹落ちしそれを試しているうちにコツを掴んでものにしていくのです。

そうやって身に着いた知識というものは、智慧のことでそこまで自分がものにするまで昇華したということで体験を尊び、体験から暗黙知を掴み、そのコツまでを体得し始めて言葉で語り合うことができるのです。

分かった気になった言葉で何度も何度も聞いたって、それでは知った気になった人と知っている人の人との対話になるのだから分かるけれど分からないということが起きているのです。つまりは分からないと思えるほどに、自分で身に着けていこう、自分の身にしていこうと真摯に取り組む人だけが真理伝道を可能とするように思うのです。

探求していくというのは、自分自身の中からこういうことですか、これでいいですかと常に自らが体験したもので相手に近づいていくようなものなのです。分からないのは体験の質量がまだまだ師に足りないからだと叱咤激励して取り組むのが弟子の態度でもあろうと思います。

自分に何が分かって自分に何が分からないのかが分かるということが、事実を知るということなのです。知った気にならないというのは、須らくその人の生き方を尊敬し、その人の生きざまを自分の中に内在させてこそその人の考え方やその人の価値を知るに至るのです。

最初の段階から分けて考えている人では自分の身につくということはないと思います。その人から学んだものが何か、その人から学びたいものが何かをはっきりさせているからこそ、探求を已めずいつの日かその学びを修得していくことができるように思います。

先日、致知出版社の社長にいただいた新著の中にこういう一文がありました。

「人に教えられたものは身につかない。自ら探して得られたものだけが自分の力になる。」(生きる力になる言葉 藤尾秀昭著) 致知出版社

あの言葉はなんだろう、どういう意味だろうと、自分の人生に置き換えて何度も何度も反芻しながら試していく中で、あるとき気が付いたら身についているというのが現実の学びではないかと思います。

すぐに誰かに聞けばいいというは、調べれはすぐに分かると勘違いすることがもっとも身に着けないことになるかもしれません。論語読みの論語知らずにならないよう、一つ一つの意味を善く玩味し、充実した人生の中からその言葉の真意を掴み取れるように真摯に行じていきたいと思います。

先人たちの歩んだ道を身を持って体験させていただけることに勇気と元気をいただけます。

今日も真摯に遣り切って真の学びを楽しみたいと思います。

 

仲間~結びの妙~

人に限らず、全ての生きものは関係性を保って生きています。

これは繋がりのことで、様々なものと関わることで自他を強く結び付けていくのです。

例えば、生き物を育てたり何かを飼ったりするとします。私で言えば、鳥や猫、犬から魚、または植物や虫たちまで日頃からの関わりの中で結びつきを強くしていくのです。以前は嫌いだったものも、共に暮らし関わり合う中で御互いに好きになっていくのです。

このお互いに好きになっていくというものの中に結びつきがあるのです。

そうやって好きになっていけば、気が付けば仲間であり、気が付けば家族のようになっていくのです。環境というものが与える価値もまたそこにあるのです。どのような環境があるかというのは、どのようなものたちと関わりそして結んでいくのかで自分を理解していくのです。

人間社会では肩書や立場などというものがあります。

それは社長であったり部下であったり、兄弟から親子、そして取引先とか友人とか、色々と関わりの対象をその立場からの見え方で捉えて理解しています。しかし、本来はそういうものではなくみんな「仲間」ということになるのです。

暮らしを通していのちは様々なものと結び合い、そして仲間になっていきます。

その仲間を大切に生きていけば、次第に仲間の存在に感謝できるのです。
自分が生きているのは、仲間があるからです。

その仲間という、繫がりや結び目のところに確かな自分の存在意義があるからです。

人はすぐに立場や肩書で関わろうとしますし、それにすぐに一人で何でもやろうとします。しかし仲間と関わっていくことで仲間を好きになっていくことができるなら、本来の絆や関係性に幸福感を味わっていくことができるのです。

その時その瞬間に出会ったものもあれば、いつまでも変わらない出会いもある。

その全てがご縁という有難い仲間の存在により実感できることに歓びを感じます。共に働くということの素晴らしさ、暮らし祭り、そして共生できる有難さ、そういうひとつひとつを噛み締めながら残りの人生も味わっていきたいと思います。

自発的邂逅

理念を自分のものにしていくことや、智慧を自分が活かせるようになるには、体験を通して全てのことを自分の答えでものにしていく必要があります。

勉強というものは、誰か答えを持っていたり正解があるからと教えてもらって教わったらできるわけではありません。教わったことを自ら行動して取り組み、そしてまた疑問が出たものを自問自答し、また習い学びまた教わるということを繰り返しながらもその答えは自分の奥からこれだと思うものを導き出していくしかありません。

引き出すという言葉も、引き出しということもどこから引いてくるかということのたとえです。

この引き出す元は、自分の根源から探し出してくることに似ているのです。

つい人は、常識的な概念の中で誰かに教えてもらわなければ分からないと思ってしまいます。知識偏重型社会にどっぷりつかると知識がないものは教わっていないと分からないという思考回路を持ってしまうものです。

しかし知識がなかった時代、太古の時代などは誰も何かを教えてくれるわけでもなく自然を観ては自分の中で思索し自分の中の答えを導き出すために試行錯誤をして一つ一つを知識にしていったとも言えるのです。

教える事で考えずにできるように便利になりましたが、それでは本来の自分の智慧にまで昇華したわけでもなく、会得してそれをものにしたわけではないのです。

本来の学びというものは、すべて自分の中から導き出してこなければなりません。そして心技体も教わってできるものではなく、すべて自分が自発的になって自分を発掘し錬磨して育てていくしかないのです。

体験がなぜ尊いかといえば、体験することで自分の言葉と自分の頭で哲学することができるからです。誰かに聴いたことを哲学してもそれは単に哲学科の勉強をしたにすぎないからです。

実際の人生は、すべて誰にも教わらずに自分の中の正解と向き合い、真摯に答えを求めようとする実体験で根源のままでいようとする取り組みだと思えるからです。自分の根源が何か、その根源が何を言うのか、その根源が何を学んでほしいのか、その根源の求めるお役目は何か、これは何につながり、何の意味があり、自分がどうしたいのかを常に四六時中自問自答して自明していくのが唯一無二の自分の人生、自発的邂逅だからです。

今一瞬のチャンスを逃さずに一日一生に全部丸ごと体験しようとする意気込みにこそ、自発的な人生があるように思います。計算するのではなく、あることを選ばずに全てのことに全身全霊で答えを自分で導いていくことがさらなる体験を呼び起こすようにも思います。

遣り切ってみるといつも心根の真心に感謝することばかりです。

自発的邂逅を広げていこうと思います。

目的と手段

遣る事と在る事ということで話をすることがあります。

人はつい何かを遣ることにばかりに捉われてしまうと、どう在るかということを忘れてしまうものです。これは目的と手段を間違えることと同じで、本来は何のために行っているのかという目的よりもどのようにやるのかという手段ばかりを考えてしまうということです。

本来、人は目的があるから遣ることがあるのです。

目的がなくてもさせられるのは何かをしようと思う前に誰かに教え込まれたり、答えはすでに用意されていてその答えのために問題を解くことに似ています。

それは手段の方が目的よりも勝っているということであり、その手段を考えているうちに本末転倒になってしまい本来の目的を見失ってしまうことで事は成就しなくなるのです。

私が取り組んでいる自然農や漬物、その他の実践は、理念という根元から養分を持ってきています。なので続きます。しかし日ごろ接しない人からは私が一過性で勢いで突然遣っていると勘違いするようで、よくまあ続きますねとか、バイタリティがありますねとか個性のように言われますが本来はその行おうとする手段は思いつきであったとしても目的がブレナイから続くし諦めないように思います。

何かを行う時は、必ずその目的は何かを思います。

そしてその目的を達することだけを念頭に置いて、そのついでに遣ることを真摯に取り組んでいくという順番です。言い換えれば、信じる事の方が何よりも大事でそのついでに遣ればいいという考え方なのです。

そうしていると、遣り切ることが信じることになり、信じることは目的を忘れないでいつまでも初心を維持しているということになるのです。

初心というものは、それを忘れてしまうから忙しくなり、元気がなくなり、楽しくなくなり、中途半端になり、迷いが出て、周りに矢印が向くようになり、一時の感情に流されて判断を過ち、後悔してしまうのです。

常に目的が何か、そしてそれを達する手段は何か、それを誰とするのか、それを語リ合おう、助け合おうという手順でいつもいることができれば、人は共生し事物全体と一体なって調和し心願成就していくことでしょう。

しかしこれは簡単に教えることも教わることでもありません。

いつも自問自答、心の声をつぶさに聴いて、その自分の中の本心や本音の声から向き合っていく必要があるものです。簡単にインターネットで検索できるものもでなければ、書籍で読むものでもなく、誰かに教えてもらうこともできません。

それを本当に遣りたいのか、その目的は何かと動機の時の心に問い続けないといけません。

大切なことを理念として初心を忘れないでいることが本懐を遂げることになるのでしょう。
一度しかない人生をやり遂げさせてあげたいのは、見守ろうとする偉大な真心です。

ひとつひとつお仕事とお役目を丁寧に進めていきたいと思います。

法理法則の宇宙

生きているとよく法理や法則だと私たちが思うものがあります。

元々私たちは宇宙自然の一部として生きているのですから、法則や法理というものは気づかずともその中に自分たちもいるということになります。

当たり前すぎて気づかないものですが、どの生きものにもその法則や法理を活用して生きています。植物であっても昆虫であっても、動物もまた星々の循環に至るまで不思議な力を得ては生きているとも言えるのです。

そういうものを自然の中にいれば自然に理解していても、自然から離れていけば何が自然かが分からず自分たちの社会で創った常識を法理や法則などと間違えてしまうことがあるのです。

人間の持つ価値観というものは、その与えられる環境の中で勝手に真実だと勘違いしてしまいます。例えば、私たちの生活する場所や育成された環境、その他の出来事や身近な人間の影響を受けて価値観も決まってしまうのです。

その価値観の中でいくら真実だと思い込んでいても、本来の真実というものはそことは別のところにあるのです。こういうものを実感できる力、直観により大局を掴むことが本来の法理や法則というものなのです。

ではなぜこれが分からないのかといえば、それは生き方にあります。人生というものは目的があってはじめて成り立つものです。その目的に向き合ったことがある人は、生き方というものを考え抜いて覚悟を定めていきます。

よく臨死体験をした人が、法理や法則に目覚めて人生を激変することもそれに似ていてそこで目的を見つめ直すからです。もし自分が明日死ぬとしたらどうするかとすれば、当然今というものにいのちを懸けていくものです。

いのちを懸けるものがあるということもまた法理法則の入り口です。本気かどうかというものも宇宙自然の一部であるからです。この「自分の価値観に左右されないところを持つ」ことで法理法則を深めてみてもいいと思います。

つまり入口はどこからでもよく、価値観以外の真実を直観したのならそれを一生大事にしそれを直向に究めていけばいいように思います。

私には法理法則の「自他一体、自他一如」だけでも十分他の法理法則が観える状態が直観で維持できます。法理法則はまるで空気のように形がないものだから、それを無意識に実感するほどにこちらが生き方を見つめていないと観えないのかもしれません。

日々はかけがえないものだからこそ、二度とない今に集中したいと思います。かんながらの道の御蔭で今との出会いと感謝によって、気づきは次第に清々しく澄まされていきます。

法理法則の宇宙を旅していきたいと思います。

元通り

自分の考えを人に伝えるには、常に自分との対話が必要になります。本来、意思疎通するというのは互いの目的に対して自分がどうしたいのかと常にそれぞれが向き合っているから話が通るのです。

そしてそれを誰かに伝えるには、自分の思いが何かを知っていないとできません。そして自分の思いと相手の思いを合わせていくことが必要です。

そういう思いを合わせていくことで伝え達していくというのが対話の本質です。

例えば、自分の感情がどのような気持ちであるのか、感情と向き合いそういう自分を知り、それをいつも周囲に伝えているということも大切なことです。人は確かな意思を持って生きていますから、その意思を確認し合ってお互いの距離感を保っているとも言えるからです。

この意思という字は辞書でひくと「何かをしようとするときの元となる心持ち」とあります。この「意」というのは感情のことを指し、「思」というのは心のことを指します。そして元とはなんでしょうか?

この「元」を知るには向き合うことが必要です。元とは、根のこと、源のことで自分がなぜそうしたいのかということを自覚しているということです。

例えば、温泉に入りたいと思ったとします。それは元はどこにつながっているのか、ひょっとしたら水の温もりを地球の体温を感じたいのかもしれません。安心したいのかもしれません、それを自然に伝えることで周りもその人のことを理解していきます。

人は元になるところに辿りつくために、言葉を使って会話をしているとも言います。その人の元になる部分が分かることで人は安心してお互いの意思を疎通していくことができるのです。

しかしこれはなかなかできないものです。元に辿り着く前がみんな違うからこそ、違っている存在を認めようとすること、感じたものや考えが違ってもそういう人なんだと分かりあっていこうとすること、そういう中に意思疎通もまたあるからです。

本来は元々、一つの存在ですが分化したものを理解しようとするのでは大変なのです。根までいくことや元へいくことが互いを深く理解し合うことのように思います。

仕事をしていて気づくのですが、大切なことは人の話を聴くことです。人に聴く姿勢が、自分の心に聴く姿勢と等しくなっています。素直に人の話を聴いて正直に取り組んでいけば、次第に素直に自分の意思を聴いて正直になっていくからです。

聴かないというのは、先に頭で考えてしまって行動しようとしないからです。まずはやってみて、その後、その深さや意味を味わい感じたものを素直に転じて悟り、継続して正直に努力していくことで意思は次第に澄んで自然体に近づいていくように思います。

この世は思い通りにならないからこそそこに面白さもまたあるのです。自分の方を変えていくこともまた意思との調和次第です。実体験の尊さもまた意思との向き合いにあるように思います。

論語に「先ず行う、其の言は然る後に之に従う」があります。これもまた素直な実体験を優先せよとの君子の教えです。

人間はいのちなのだから何よりも素直でいることが一番ですし正直でいることがもっとも個性が光ります。それはとても調和のとれた思いやり優しく、元気で楽しい豊かな存在ということです。赤ちゃんから学び直せるように、人がオープンであること、あるがままでいること、元通りであることを大切に味わいたいと思います。

仕事の本質

人は誰かのために何かをさせていただけるという感謝の上に遣り甲斐と生き甲斐を感じるものです。この甲斐があるというのは、それだけの価値があるということを意味しているように思います。

そもそも人は関わりの中で生かし活きるものです。

人間というものは、その人と人との間を通して自分というものを認識し、そして自他の関係の中に人生の妙味を味わうものを得ていくのです。

喜怒哀楽も感動も感激も、そして愛も幸せもすべて人との間を通して実感していくものです。言い換えれば、つなかりや絆の中にその存在を実感して自分がそのものと一体になっているときにそれを体感できるようにも思います。

この世そのものが「楽園」であるのは、そういうものを生まれてきて実感できる場であるからです。

その楽園に来ていることを最も実感できる基本は、誰かのために相手のために常に自分を使い切っていくことのように思います。そしてそれをいつも歓びにしていくことのように思うのです。

人が幸せになるというのは、相手に歓んでもらおうとすることだからです。

相手に歓んでもらうことこそが生き甲斐になり、誰かに歓んでもらうことのために自分ができることを精一杯勤めていくことこそが遣り甲斐というのです。

人は自分のことをやっているだけでは、生き甲斐も遣り甲斐も感じることはありません。

どうやったら相手に歓んでもらえるか、どうやったら誰かに歓んでもらえるか、それをとても高い次元で実践していることが甲斐性があるということです。能力が高いからでもなく、余裕があるからでもなく、誰かの歓びのために生き切る人だからこその甲斐性なのだろうと思います。

仕事とは働くとは、その歓びの次元をいつも自分に内包しておくことだと思います。この一つ一つのことが、誰かのお役に立っている、そして相手に役に立てたことが甲斐になるのです。

だからこそ、もっと喜ばせたい、歓んでもらいたい、幸せにしたいと祈るように願うように一つ一つの仕事に歓びの心を籠めることこそが生き甲斐、遣り甲斐だといつも実感していることが仕事の本質なのです。

仕事とは、人に仕えるとありますが仕えるというのは神仏に仕えるという意味です。自分も相手も喜んで歓びあうことを善しとして日々の生活を遣い切っていくことが甲斐性を育てることかもしれません。

いつも歓びの次元を忘れないよう、自分をより多くの歓びに仕えるよう精進していきたいと思います。

新古今の人生の証

人は生き方を通して人と出会い、働き方を通して生きることを学びます。

つまりは人生を歩むとも言えるのです。

昔を懐古しつつ恩師の御祝アルバムを創らせていただいているのですが、人生を共にする時機を見つめればその二つの出来事を知るのです。

今の時代はどこか人生を分けて考えている人たちが増えています。人が生きるということは何かを分けて考えるのではありません。分けないというのは、もともと一つの人生があったこと全てを分けないで遣り切ることを言うからです。

もちろん自分を中心にして観れば出来事は自分のことと他人のことと分けたくなるのでしょうが、それでは生き方と働き方が分離してしまうのです。何よりも勿体ないことであり、どんなことでも日々を全身全霊でいればいるほどに自他の境目も生き方も働き方も一致してきて、一つの人生の旅路の醍醐味を楽しんでいくことができるのです。

単に自分を納得することよりも、誰かのために生きようとすること、そして誰かと共に歩んだことを学びつながりを内省し新たに改善していけることが自他を磨き光らせていくことができるのです。始まりと終わりが一つであるように、一つの中にその輝きも煌めきもまたあるのです。

昨夜も不思議な機縁を感じましたが、ちょうど私が恩師とはじめて出会うのは今の歳と同じ頃になります。つまり私の今の歳がちょうど恩師から指導していただいたときの恩師の齢と同じです。あの頃は、だいぶ年上の先生というイメージでしか観えなかったものが今ではその同じ齢になり当時をふり返ってみると「ああ、そうだったのか」とまったく異なる世界も観えてきます。

当時、必死で真剣に私たちと向き合い指導してくださっていたこと、何よりも本気で人生を私たちにぶつけてきてくださっていたこと、こいつらの人生を強くしようと深い愛で接してくださっていたこと、それを今の齢の自分に置き換えて実感できるのです。つまり今の自分の生き方と働き方から恩師と一致させていくことで同体験を味わうことができるのです。

そうして、その尊さやその有難さを背中から学んだものを今度は自分が正面から誰かに学びを与えていく番になったのです。恩師であったものが同志でもあったという新たな場所に立ち、不思議なご縁を感じて幸せもまた倍増するのです。

一つ一つの思い出を整理していると一生懸命に共に真摯に生きた人生の証が新古今に滲み出てきています、当時と今との人生を回転させて観る新たな邂逅ともなりました。こうやって分かれていななかったものがつながるのもまた学びです。

この歳になるまで温めてこれた出会いにまた感謝しています。
有難うございます。

 

恩報愛人

昨日は中学時代のバレーボールの恩師の退職祝を郷里で行いました。

24年ぶりにお会いする恩師や、周りの先輩方、旧友は見た目には変わっていましたが人柄などは以前とは変わらず一緒に幸せで豊かな時間を過ごすことができました。

恩師へ贈るメッセージカードを集めていたら、そこに恩師との絆があることを実感します。

恩師の影響を受けて学校の教師になった人たち、今でもバレーを続けて指導している人たち、仲間を大切にすることや、忍耐の重要さ、そのカードから共通している部分が沢山観えてきます。

大切な時期に大切なことを教えてもらったことをいつまでも忘れずに、その後の自分の人生の宝物にして歩んでいる先輩方や友人、後輩の姿があるのです。

そういう私も、恩師とは深い絆をいただいていて自分の善いところを沢山引き出していただきました。それから24年間、ハガキを通しての関わりでしたが教育者として変わらずのポリシーを持ち続けていただ恩師に改めて心からの感動を覚えました。

恩師の最後の挨拶の中で、「バレーを通して少しでも人生の糧にしてほしい」という言葉に私が学んだのは恩師の後ろ姿から得たその生き方そのものであったことを知りました。

恩師という言葉は、「恩+師」でできています。そして愛弟子という言葉は「愛+弟子」でできています。恩も愛も、天人の「絆」を実感する言葉です。私が恩師からいただいた絆はこの恩と愛そのものだったのかもしれません。

これを私は恩報愛人、「恩に報いて、人を愛す。」とし、恩師や旧友に学んだことを心の題辞に刻むことにしました。皆の生き方や生きざまを感じて退職祝に集まった人たちの恩と愛を実感した有難い一日になりました。

蔭ながら支え見守り支援してくれた方々の御蔭に心から感謝しています。

これから昨日の写真を整理し、思い出のアルバムを創らせていただくのですが、改めて一期一会の出逢いの大切さを感じ直したいと思います。

 

自然との協働作業

自然を鏡にしながら日々のことをふり返ると不思議なことばかりを実感します。

私たちは自分から見ている世界のことを一般的には世界だと信じ込んで生きているものです。言い換えれば実際は自分が何かをすることで世界が動いていると思い込むのです。しかし当然のことですがが、自他同時に様々に世界は一瞬たりとも変化して已むことはありません。

どんな瞬間瞬間も同時に世界は循環しているのだから様々なものはつながりの中でそれぞれに存在するのだから自分も全体の一部としての役割を果たしているものです。

そこから全体を観てみれば、私たちは何らかの協働作業をしているともいえます。つまりは自分だけで何かをするのではなく、同時に目には見えませんが確かな何かと一緒に何らかの存在と常に一体になって常に作業をしているのです。

例えば、呼吸をするにしてもその呼吸を通して全てのいのちとつながっています。自分が一呼吸すればその呼吸を通じて世界の何かと協働します。他にも自分が生きるだけでも、食べ寝て何かをするのですから何らかの影響を周囲に常に産み続けているのです。

私たちは知らずしらずに、そういう全体の自然と一体になって共に生きているという境地があるということです。

生き方というものも全体と関わりが深いからこそ、一度きりの人生を自分が生きるのにどう全体と協働していくことがもっとも循環をより善くするか、そしてその自然の何と一体になっていくことがよりよい繫がりを活かすことになるのかと考えるということです。

生きていくというのは、時代というものとの協働作業、流行との協働作業、価値観との協働作業、小さない生きものから大きなものまで共に地球のいのちの協働作業、大宇宙との調和を協働するとも言えると私は思うのです。

自然の叡智を実感することは、その時々の気候運行天体に合わせて生きることで得られるのかもしれません。彼方からの直観もきっと、そういう処から此方へと映るものかもしれません。

生きることも死ぬこともすべては自然との協働作業。日常の些細なことでも何かを協働していることを忘れず、子どものように一切の手を抜かず出来事のありのままを自然のままに味わっていきたいと思います。