体験=役割

必ず生まれてきた以上は何かしらの役割を人は持っています。役割がない人というのはいません、なぜなら人は必ず誰しも何かしらの体験をするからです。

人は自他一体になることで、誰かのお役に立てるものです。これは何かと言えば、自分の体験したことが他の誰かの役に立つという意味です。

例えば、祖父の体験したことが父に受け継がれ、それが息子のためになり、またそれが孫のためになる、それだけではなく同時に前後左右、未来過去今に体験そのものが響き、誰かの役に立っているのです。

他にも、その人がその人で体験したことが同じように困っている人や、同じように悩んでいる人、もしくはその人も気づいていないようなことに響いていくのが体験するということなのです。そうやって自分の体験が誰かの御役に立っていると信じている人は、必ず自分の役割を自覚するのです。

自分の役割が何か分からないというのは、自分の体験を自分が深めていないだけで、その体験が誰かのお役に立つと内省していないのです。自他一体であるというのは、相手が自分そのものだとしたら自分は何をしてあげられるだろうか、自分がどうしてあげられるかを考え切り行動するということです。意味の価値を真底感じられるのは自他一体の境地が最も澄んでいるのです。

人は体験を持ち合う同士で、道を繋ぎ、糸を辿り、その体験をそのものを伝承するのです。そしてその伝承とは役割を果たしていくという意味でもあるのです。それが響き合いとなり、役割を分かち合い世界に波長を循環していくのです。

体験こそが尊いのは、その人の尊い役割を持っている、自分に御役目を与えてくださっていることに価値を実感し心から感謝できるからです。

有難いのは、自分という尊い体験という役割があるということに感謝するのです。

自分の体験が必ず世界の誰かの役に立つと信じて、日々を怠らずこれは何だろうと求め続けてつながりの中の意味を紡ぎ続けていくことが自他一体なのです。常に分かれているもののなく、羅網のように世界は結び合っているのだから響いていくのが体験の感得で役目の感謝なのです。

体験に親しんで、御役目を楽しんでいきたいと思います。

初心鑑

世阿弥が遺したものに「花鏡」があります。

有名な一文に、「初心忘れるべからず」という言葉があります。

この時の初心は、何か始めたときの心を忘れるなと使われているようですが実際はそうではなく常恒に自分がどのような心でいるのかを忘れてはならないということを書いています。

そこには、こうあります。

「しかれば当流に万能一徳の一句あり。 初心忘るべからず。この句、三ヶ条の口伝あり。是非とも初心忘るべからず。時々の初心忘るべからず。老後の初心忘るべからず。この三、よくよく口伝すべし」.

これにも解釈を様々にする人がいますが、私にとっては花を自分の鑑として自らの芸を究め続けようとした自然から学ぶ姿。その時その時の時代で様々な出来事という風が吹く中で、常にその種(心)を見つめ、その種に花を咲かせていこうとする生き方の姿勢、つまりは世阿弥は生き方そのもののことを記していると私には思えるのです。

生き方まで高まったところで自らを磨くというものは、「実践そのものが人生」、「何も分けないのが人生」「今を遣り切るのが人生」、つまりは『人生こそが稽古そのものである』と定義し「、平常心を忘れずに自然を自らの鑑にして学び続けよ、それを当方の流儀の要とする」とその自らの生死観の思想を伝承したように思うのです。

そして伝承しようとするところにだけこの「初心」と永遠の命があるのです。

世阿弥に父観阿弥が遺した生き方という真心を受け賜る世阿弥の素直な真心、そしてその譲り受けた真心を息子元雅に伝えたいという世阿弥の親心、この世阿弥の「間合」にこそ純粋無垢、清浄無垢な「初心」という言葉がはじめて「為る」のです。

私にも生き方の鑑と呼べるような方が沢山あり、その人を自らの鏡にしながら自分の人生の稽古に励んでいます。師とは、自らを照らす鏡のようでありその鏡を観る時、自らの初心を映し出すのです。何を鑑にして生きるのか、それを花とするのもよし、それを月とするのもよし、それはその各々の美しい心にこそ聴けばいいのです。

有難いご縁はいつも偉大な存在を身近に感じさせてくれます。
私たちは生き方を通して人生を学び、生きざまを通じて一家を確立していくのです。

子どもたちに己の生き方を遺すのは自分の命を全て懸けられるだけの偉大な仕事です。

時事の初心を念じ、その真心を温め育て次世代へと家を発展させていきたいと思います。

出愛~遊び心~

縁を辿っていくというのは法を求める信仰に似ています。

例えば、何かしらの出来事からそれが根本は何につながっているのかということを辿っていくのが縁でもあります。日々の誰かの一言や、ふとしたところで足を運んだ場所で、その意味やその理由を奇跡の感激のままに辿っていくことが縁でもあります。

先日も、中国で偶然に訪問した赤山禅院での邂逅から様々なことを学び直しています。出会いというものは、よく聴き耳を立てては聞えないはずの声を聴くことであり、よく目を凝らしては心でしか観えないものを観ることであり、感覚を研ぎ澄ませては一言一句忘れまいとその意味を深めて直観することを言うのかもしれません。

毎日というものは、様々な出会いに満ちています。
しかし実際は満ちているとしても出会いを出会いにしていないことが多いように思うのです。

自分の出会いたいものとしか出会わないでは、一期一会とは言わないように思うのです。自分の出会いたいと思ったものを優先するのではなく、この出会いは何か、またその出会いは何とつながっているか、まるで計画していない雲水のような旅の妙味を楽しむことで人生の醍醐味と面白さを実感し続けていくようにも思います。

それは如何に謙虚に出来事を深めているか、そして素直に人の話を聴いているかに尽きるようにも思います。そう考えてみると、出会いが人を成長させていくということの本意が理解できるように思います。

つまり人が出会っても出会わないのは学んでいないから、出会っても活かせないのは習っていないから。そうであるならば、ここでの学び習うということは全てのことを感得し敬い承る信仰のように全てのご縁を自らが尊び、それをよくよく内省して気づいた機会を忘れず、さらに自明を掘り出し、前へ前へとご縁を辿る新たな発見の旅を鮮やかに歩んでいくことのように思います。

ご縁に気づくということは、自分に気づくということです。自分に気づくということは出会い気づくということであろうと思います。

出会うことで人は人になっていきます。

出会いは人を人にするだけではなく、人は出会いによって人であるのです。
人であるときが愛そのものであるのです。

だから人はこの世の楽園を楽しみたい、愛したいと願うのでしょう。

出会いの尊さを実感しつつ、また新たな発見を遊び心で楽しんでいきたいと思います。
出愛ある日々に感謝しています。

 

心身の健やかな成長

人は身体が発達していくように、心というものも発達していくものです。

人が発達するということは、自然の法理の中で発展していくということですから自然と同じように根から養分を吸収し成長し開花し実をつけ種になるという経過の中で何に気づくか、何を生きるか、どう生きたかということを学びつつ調和していくのです。

調和というのはバランスのことですが、様々なことの中でどこが一番バランスの善いところなのかのコツを掴んでいくことで自然体に近づいていくのです。自然体というのは、身体と心の発達が健やかであるということです。

心身が健やかでいるということは、そうやって今という時事の中で自分らしく生きていけること。つまりは自分の生命を全うしていけるような生き方ができることのように思うのです。

みんな生まれてきたからには、初心があるものです。初心とは動機のことで、その動機がどのようになっているのか、どのようになっていくのか、それをどう成長させていくのは自分次第です。

有名な言葉に、京セラの稲盛和夫さんの言葉に「動機善なりか、私心なかりしか」がありますがあれは私になりに解釈すると常に初心を忘れていないか、初心を善に向けて育成しているかという自戒の念のように思えるのです。

動機というものは、物事を行うときの心のことです。

その動機をいつも今に対して正しくしていこうとすること、心を正して素直に取り組んでいこうとする誠の姿勢、そういうものが心を育てていくのです。心を育てていけば、自ずから身体もまた育ちます。そして身体も澄ませていこう、正していこうと生活を改めていくことでまた自ずから心も育とうとするのです。

決心という言葉があります。

あれは、心がどうしたいのか、自分の動機はどうしたいのかを常に今に正対し向き合い、その向き合った気持ちをやり遂げてあげることのように思うのです。心の動機に対して、身体が動いてくれればそこに健やかな生き方、清々しい足跡が残るのです。

人は生きていることで出逢います。

出会いは、心を育ててくれる素晴らしいご縁です。
心が日々に成長していくのを、初心伝承を忘れないことで見守っていきたいと思います。

平常心鑑

人はすべてに何かを行うことには動機があるものです。
理由がなくてやっていることは何もないとも言えます。

本来、生きているということは常に何かしらの選択をしているものです。何もしないということでさえ、何もしないという選択をし、生きていることでさえ選んでいるのです。生まれてくるということでも、産まれてきたことに確かな動機があるのです。

しかし日々に流されてその動機が次第に分からなくなっていくのが人間とも言えます。知識や経験が増えてくるとともに、自分都合で考えるようになってから忙しくなっていきます。この忙しいというものは、心を亡くすと言う字でできているように、常に心がどうしたいのか、心は何を求めているのかを思うよりもその時の気分次第で頭で考えている方でほとんどを占めてしまうことに似ています。

もともと心というものは、とても複雑なものです。常に感謝していたかったり、感動していたかったり、感激していたかったりと、まるで子どものように心を動かして感じているものです。心は生きていて心が自分を突き動かしているのです。そこで人生の妙味を味わっているともいえます。それを常に忘れたくないというものが心の本体の求めることなのです。

愛や希望、勇気や感謝、全てを実感していたいといつも願っているのが心とも言えます。そしてそれを求める動機に何かしら心がやりたいことがあるのです。その心がやりたいことを優先してやらせてあげることも見守るとも言えます。自分のことを自分で見守るからこそ、他人のことも自分と同じように見守りたいと思うものです。

心がやりたいことを感じたままに日々を歩むことができれば、どんなことがあったとしても心の持ち方次第で竟には感謝にまで昇華し心があるということへの幸せを実感できるものです。だからこそはじめに何を心が求めたか、新しいことを行う時に心は何を動機にしたのか、それを絶えず確認することが「初心」というものです。

その初心を維持するのに平常心がありますが、これが心の持ち方の本質なのでしょう。

平常の心こそ初心であり、その初心をいつも平時に維持しているというのは、常に心は原点に定まっていて気分やその時の状況に関係なく出来事に対して心を動かしバランスを取り続けているという感覚のことです。

心は形がないものだからどんなことも受容でき寛容できるものです。地球にいるすべてはまるで自然のように、全てのことを心の赴くままに生きていきたいと願っているのです。

初心を忘れないだけで、自然と同じく心のままに生きていけるように思います。
様々な言い訳を使って心を蔑にせず、どんな状況でも平常心を研鑽していきたいと思います。

師を鑑にして、初心を忘れずに動じない心胆を目指していきたいと思います。

心をオープンに

人は心を使って何かを感じ取っているものです。

例えば、思いやりや察することのように話さなくても分かるとか、話しても分からないというように互いの心を通じ合わせて相手のことを理解するというコミュニケーションを持っているのです。これは東洋西洋の違いもなく、心が豊かで心が優先される社会を築けば自ずから互いのことを思いやり助け合おうとしていきます。

しかし言葉をぶつけ合ったり議論したりして理解しようとして、知識と言葉だけを使い認識し合って相手を理解しようとするコミュニケーションになると互いのことは分かっても互いのことが分からないということが発生したりします。

これは表面上の会話で反応や反射するのが対話ではないことにすぐに気づけます。

本来の対話というものは、御互いの心を通じ合わせて理解しあっていきます。そのためには、常に心が開いている状態を維持し、自ら心を通わせて思いやり察しつつ言葉を使ってより深く相手に共通し共感していくということを行います。

つまり言葉というものは本来は、心を乗せるための道具として産みだしたもので昔はその道具がなかった時代は常に心を通わせ交流したように思うのです。

例えば、動植物や昆虫のような生きものと対話をする際には知識だけで理解したことで言葉を投げかけても相手は応えるわけではありません。もちろん分析して、こういう生きものであるということは理解できます。それは人間であれば、息をして水を飲み、食べて寝て育つと等という理解と同じです。

しかし実際はどうかというとそこに心が存在してます。複雑で繊細な感情もあるのです。そういうものの理解は言葉で理解するものではなく、心を通わせて互いの同通させて思いやりの中で共感するのが本来の対話なのです。

対話というものは、相手の気持ちになって相手の中に入り相手のことを自分のことのように思いやることで相手の気持ちに寄り添うような実践を行うことです。どんな気持ちであろうかと、どんな心持になっているのだろうかと、心配して一緒に同体験を実感する中で得ていくものです。

いくら言葉だけで形式的に何かを交わしてもそれが対話ではないということです。

対話というものは、どんなこともこちら側の姿勢でできるものです。相手に反応するのが対話ではなく、こちらが対話にしていこうとする姿勢が対話であろうと思います。

対話というものは、自分の心を開いておくこと、自分の心がつながりや絆の中に投影できるということ、自然に思いやり察していけるところにこそその心のリードがあるように思います。

常に心が自分をリードしていくようにしていくことは、自らの本体を大切に相手の本体を尊重していくことに似ています。今のような時代、日々の刷り込みからコミュニケーションという言葉が歪んで伝わらないように、自他への思いやりや優しさ、尊重を優先して心がいつもリードできるように心をオープンにする実践を積んでいこうと思います。

初心は御蔭様

人は天道としての使命に対して役割を果たすというものがありますが、人道としてどうあるべきかということとセットになっているものです。

天道だけをやっていたらいいのではなく、同時に人道としても実践が要ります。この人道とは何かといえば、恩返しに他ならないと思うのです。

今まで自分がお世話になってきた方々、この今の自分がある御蔭の方々のことを思えば感謝が込み上げてくるものです。社会にでても同じく、今まで自分を育ててくれた父母や祖父母、親類から友人、地域の方々、ご縁のあった人たちから与えてくださったものをどのように還元しようかということが働くということです。

自分が働くということは、自分勝手に働くことではなく何で恩返しができるだろうかと考えていくことが大切なことのように思います。

そしてそれは、今在るところを深く掘っていくほかありません。

いのちの使い方として自分のやりたいこともありますが、単にやりたいことをしていたらやりたいことができるわけではありません。やりたいことをどれだけ御恩返しの中でさせていただけるのか、御恩返しがしたいと思う中にやりたいことが自然に入って来るのか、その一体になっている処にこそ道が実在しているように思うのです。

人はすぐに偏り、自分のやりたいことだけとか、恩返しだけとか、分けてしまいかえってそれが自分勝手や恩着せがましいなどと矛盾を内包できずに裏目に出てしまうことがあるものです。我が入れば自分我中心になりますからすぐに間違いを修正するようなことが起きるように思います。

何をすることが使命を果たすことで、何をすることが恩返しをすることになるのかをしっかり持つことが大切で、それはご縁の有難さに感謝して眼前の脚下の出来事を真心で遣り切っていくことのように思います。

言い換えればどれだけ今を一期一会に、全てとの出逢いを大切に生き切ったかが問われるのです。

不満や不足が出ているときは、今に出会いに集中していないときです。今に集中していけば、自ずから没頭していけ、次第に心の満足や豊かさに必ず出会うものです。そういうものに感動して感激していくことの連続が常に感謝の心に結びついていきます。

そう考えてみると、あの初心という言葉は御蔭様と同義語なのです。初の心というのは、うぶの心で産むの心、つまりは生まれたての心ともいうものです。産霊神の結びもまたこの初の心を表現しているのです。

御蔭様という真心を初心に御恩返しできることに感謝して生きたいと思います。

時に応じて気分か平常心か

昨日、GTセミナー終了後に皆で乗合したタクシーで貴重な学びとご縁がありました。

そのタクシーの運転手さんは、公益財団法人東京タクシーセンターが発行している「優良運転者表彰」を受賞している方で15年間、無事故無違反、また対人トラブルがなかったので表彰されたそうです。

物腰もやわらかく、人柄も滲み出ていたのでなぜこれを表彰されたのですかとお聴きすると「当たり前のことを普通にやっただけです」と答えられました。

その当たり前とはなんですかと私が聴くとこう答えてくださいました。

「当たり前とは気分で仕事しない、気分を仕事に持ち込まないことです。」

それではそのためにどのような工夫しているのかもしよければ教えてくださいませんか尋ねると、

「気分がよくないと思う時は、無理をせずに休みます。それは例えば、どこかに車を停めて深呼吸したり、自らを整えてからまた車に向かいます。」

と仰いました。お客様との人間関係や、交通状況で色々と気分が左右されてしまいそうなことがあるようです。そういう時は、無理をせずに一呼吸置いてから運転するようにしているそうです。

私がそれは「平常心」のことですかとお聴きすると、「そうです」と答えられました。これはつまりは、常に自らの状態を平常心を保つことで仕事を当たり前に積み上げていく実践を行っているということだと思います。

この自らの気分を常に見定めてということはとても大切なことであろうと思います。

人はその時その環境、相手や状況の気分次第でいくらでもムラっ気が出てしまうものです。それが様々な本質から外れ、取り組むことへの品質を下げてしまうのです。初心の維持とは、自らのモチベーションの維持に似ています。

大切な仕事や重要な仕事は使命に立脚しているものです。それは何年も何十年も同じことを続けてはじめて為されるものです。二宮尊徳の積小為大の言うように、大きいことは日々の小さい実践の集積の上にはじめて為るからです。

それをいちいち気分で為ったとか為らないとかで時々の自分次第の気分を持ち込んでいたら、決して目標を掲げた山は積み上がっていくこともありません。

日々というものは、毎日変化し万物も流転するのだから同じ日はないのです。そんな中でも自分の方を見定めて、変化する日々の中でも変化に応じつつ虚心坦懐に初心を忘れずに取り組んでいるとそこに結果が後からついてくるということなのです。

昨日のタクシーの運転手さんの実践から、その姿勢次第で結果が必ず着いてくることの証明を教わったように思います。

つい人が目先の派手なことに囚われるのはその時の気分がそこに入っているからです。気分を持ち込まないというのは、初心を忘れないことに似ています。常に自分が気分次第で最初に決めたものを変えたりしないように、平常心を保つ日々の精進こそが本質からブレないコツのように思います。

長年続いていくこと、本物は続くのは気分でやっていないからです。

タクシーという仕事は、人の命を載せて運ぶ仕事でもあります。だからこそ、その本質として平常心を維持し安心安全に実践を重ねるということを貫こうとされている方とご縁があったのは有難いことです。

身近な学びを大きく自分に置き換えて、学んだことは心に据え置きして新たな精進を積んでいきたいと思います。

自習自学の勘所

日々のことを繰り返していくというのは「習う」ということです。

この習うという言葉は、私の解釈では論語の「学びて時にこれを習う、また説ばしからずや」の習うが定義で、「学んでいることをひとつひとつ体験する中でその真理が自分のものになっていく、それはとても有難いことである」というように思っています。

学ぶということは単に知識を得る事ではなくそれを自らで体験して本質に気づき、内省して直観したものを掴み取るときにこそはじめて学んだという尊い習い事になるからです。

今年からミマモリングを深めていく中で気づくことも多いのですが、コーチングの世界には共通する教えがあります。その一つに、チームスポーツであるラグビーはとても参考になります。

平尾誠二氏と金井壽宏氏の対談で「型破りのコーチング」(PHP新書」がありますがこれは組織のマネージメントやコーチングのことを実践による言葉によって伝えていくということについて書かれています。

例えば、先ほどの私の認識の習うということについて金井氏からの解説ではこう書かれています。

「現実の世界でうまく物事を実践しながら、その経験から得た教訓を言語化できる人のことを、マサチューセッツ工科大学(MIT)のドナルド・ショーン教授は「内省的実践家」(reflective practitioner)と名付けました。実践していることの意味が勘どころを自分の頭で考え、それを言語化して次の実践に活かすことができる。」

この内省的実践家というのは、もともとの「学」という定義を「習」ということにしているということです。学習という字は、そもそもその本質を顕しています。自学自習というのは、本来学んだことを体験しそれを自らで体得していきそれを活かしていくということです。

今の時代は、先に知識を得ては試そうともせずにその知識の周りを玩ぶかのように時間を浪費していることが増えているように思います。本来の仕事の遣り甲斐や楽しさというものは常に試行錯誤の中にあるものです。

試行錯誤するからこそ常に変化して已まないのです。真理は得ることに重きを置くのではなく、試行錯誤に重きが置かれるということです。それが温故知新になり、いつまでも本質を勘所に置いたままにして伝承していく方法になっているからです。

自分なりの学習したことが誰かの御役にたっていくということ。社会はそういうお役目を果たしあいたいと願う中で得難い邂逅を得ているのです。そうやって自分の御役目に没頭するとき、本来の「面白さ」というものを体験できるように思います。ただ真面目に反省することが内省ではないのです。それでは勘所が間違っているのです。

本来の仕事というものは、楽しみの中にありそれは没頭するときに得られるものだと定義しています。この没頭というものは、文字通り寝ても覚めても考えているということや、深めて辿り自明するのを味わっている境地とも言えます。

人がひとたび、その境地に達すれば自然に自ずから一流のいる処に棲まうことができるという意味であろうと私は思います。

話を戻せばコーチングをする際に、平尾氏がもっとも大切にしているのがセオリーを持ち実践し伝えるということです。これは他人からとってきた知識ではなく、自分なりに明確にした確信を伝えていくということです。このセオリーとは私には戦略であろうと思います。

型破りという本のタイトルにするのは、今の時代のコーチングのあり方へのアンチテーゼかもしれません。そういう意味で私の考えて行うコーチングのあり方も今の時代のコーチングの姿から観れば平尾氏と同じく「型破り」なのかもしれません。守も破も離も全部が本質を捉える時に行う実践の一つです。

分かりやすくまとめれば今の時代は習うということと、学ぶということを反対にすれば自習自学がコーチの実践かもしれません。まだまだミマモリングを深めてみたいと思います。

最後に、この著書で平尾氏の大切にしている恩師の印象深い言葉を紹介します。

「—好きでたまらないか、やりがいを感じているか、少なくともやっている意味がわかっている人間でないと一流にはなれない。そして、そういう人間だけが集まれば日本一になれる。」

そういう人材をどれだけ育成できるか。

新しいテーマは、新しい自分を開拓していけます。
明確な確信を得るまで、試行錯誤を味わっていきたいと思います。

 

引合力

この世には引力の法則というものが存在しています。しかし今でもその根本がどうなっているのかは解明されていません。

全ての物体には、引き合う力がありそれによって関係を維持していくのです。例えば、宇宙でいえば太陽と地球はお互いが引き合っています。太陽が引っ張る力がなければ地球はどこか遠くに離れていってまいます。また月と地球の関係も同じく、引き合っているから最適な距離で互いを必要に保ちます。実際は対比したから書いていますが、他にも様々な周辺な星々との関係を着かず離れず維持しているのです。

互いを引き合う力というものは、波長や波紋のようなものがあるのかもしれません。その空間の中に互いの持つ性質が引き合うからです。これは自然を観ていても実感しますが、性質の近いものが引き合ってその周辺にたくさん存在してきます。

イネ科の植物の周りにはイネ科が集まってきますし、虫たちも互いに必要とし合うものが最適な距離のところに生きています。人間でも等しく、同じ理念や志のあるものたちが引き合い近いところに集まってくるのです。

不思議なことですが、引き合う力によって互いを引き寄せ合っているのがこの観えない力であろうと思います。その引き合う力の根源は私はつながりがあるからであろうとも思っています。

つながり結びの中にいると、そもそも切れている場所はありません。それをくっついたり離れたり伸びたり絡んだり重ね合ったりしたながら私たちは存在するのです。引き合うのはそれは糸が伸縮するように最適な距離を引き合いながら存在させているのです。

そういう宇宙では目には見えないところの波のようなものが交互に揺れ動いているように思うのです。根拠は何処にあるかと言えば、身近なバランスをよく注視していればこれに気づけるはずです。

形があるものが形を形成するということは、そこに形に留めておける引き合う力がなせるからです。その引き合う力を上手に活かすことが繋がりを組み合わせる技術になっているのです。

縁を辿るのも、今を遣り切るのも全てはその引き合う力を使っているのです。杜のように澄んだ真心の空間を創造し、様々ないのちを引合力を高めて集めていきたいと思います。