日々のことを繰り返していくというのは「習う」ということです。
この習うという言葉は、私の解釈では論語の「学びて時にこれを習う、また説ばしからずや」の習うが定義で、「学んでいることをひとつひとつ体験する中でその真理が自分のものになっていく、それはとても有難いことである」というように思っています。
学ぶということは単に知識を得る事ではなくそれを自らで体験して本質に気づき、内省して直観したものを掴み取るときにこそはじめて学んだという尊い習い事になるからです。
今年からミマモリングを深めていく中で気づくことも多いのですが、コーチングの世界には共通する教えがあります。その一つに、チームスポーツであるラグビーはとても参考になります。
平尾誠二氏と金井壽宏氏の対談で「型破りのコーチング」(PHP新書」がありますがこれは組織のマネージメントやコーチングのことを実践による言葉によって伝えていくということについて書かれています。
例えば、先ほどの私の認識の習うということについて金井氏からの解説ではこう書かれています。
「現実の世界でうまく物事を実践しながら、その経験から得た教訓を言語化できる人のことを、マサチューセッツ工科大学(MIT)のドナルド・ショーン教授は「内省的実践家」(reflective practitioner)と名付けました。実践していることの意味が勘どころを自分の頭で考え、それを言語化して次の実践に活かすことができる。」
この内省的実践家というのは、もともとの「学」という定義を「習」ということにしているということです。学習という字は、そもそもその本質を顕しています。自学自習というのは、本来学んだことを体験しそれを自らで体得していきそれを活かしていくということです。
今の時代は、先に知識を得ては試そうともせずにその知識の周りを玩ぶかのように時間を浪費していることが増えているように思います。本来の仕事の遣り甲斐や楽しさというものは常に試行錯誤の中にあるものです。
試行錯誤するからこそ常に変化して已まないのです。真理は得ることに重きを置くのではなく、試行錯誤に重きが置かれるということです。それが温故知新になり、いつまでも本質を勘所に置いたままにして伝承していく方法になっているからです。
自分なりの学習したことが誰かの御役にたっていくということ。社会はそういうお役目を果たしあいたいと願う中で得難い邂逅を得ているのです。そうやって自分の御役目に没頭するとき、本来の「面白さ」というものを体験できるように思います。ただ真面目に反省することが内省ではないのです。それでは勘所が間違っているのです。
本来の仕事というものは、楽しみの中にありそれは没頭するときに得られるものだと定義しています。この没頭というものは、文字通り寝ても覚めても考えているということや、深めて辿り自明するのを味わっている境地とも言えます。
人がひとたび、その境地に達すれば自然に自ずから一流のいる処に棲まうことができるという意味であろうと私は思います。
話を戻せばコーチングをする際に、平尾氏がもっとも大切にしているのがセオリーを持ち実践し伝えるということです。これは他人からとってきた知識ではなく、自分なりに明確にした確信を伝えていくということです。このセオリーとは私には戦略であろうと思います。
型破りという本のタイトルにするのは、今の時代のコーチングのあり方へのアンチテーゼかもしれません。そういう意味で私の考えて行うコーチングのあり方も今の時代のコーチングの姿から観れば平尾氏と同じく「型破り」なのかもしれません。守も破も離も全部が本質を捉える時に行う実践の一つです。
分かりやすくまとめれば今の時代は習うということと、学ぶということを反対にすれば自習自学がコーチの実践かもしれません。まだまだミマモリングを深めてみたいと思います。
最後に、この著書で平尾氏の大切にしている恩師の印象深い言葉を紹介します。
「—好きでたまらないか、やりがいを感じているか、少なくともやっている意味がわかっている人間でないと一流にはなれない。そして、そういう人間だけが集まれば日本一になれる。」
そういう人材をどれだけ育成できるか。
新しいテーマは、新しい自分を開拓していけます。
明確な確信を得るまで、試行錯誤を味わっていきたいと思います。