人はすべてに何かを行うことには動機があるものです。
理由がなくてやっていることは何もないとも言えます。
本来、生きているということは常に何かしらの選択をしているものです。何もしないということでさえ、何もしないという選択をし、生きていることでさえ選んでいるのです。生まれてくるということでも、産まれてきたことに確かな動機があるのです。
しかし日々に流されてその動機が次第に分からなくなっていくのが人間とも言えます。知識や経験が増えてくるとともに、自分都合で考えるようになってから忙しくなっていきます。この忙しいというものは、心を亡くすと言う字でできているように、常に心がどうしたいのか、心は何を求めているのかを思うよりもその時の気分次第で頭で考えている方でほとんどを占めてしまうことに似ています。
もともと心というものは、とても複雑なものです。常に感謝していたかったり、感動していたかったり、感激していたかったりと、まるで子どものように心を動かして感じているものです。心は生きていて心が自分を突き動かしているのです。そこで人生の妙味を味わっているともいえます。それを常に忘れたくないというものが心の本体の求めることなのです。
愛や希望、勇気や感謝、全てを実感していたいといつも願っているのが心とも言えます。そしてそれを求める動機に何かしら心がやりたいことがあるのです。その心がやりたいことを優先してやらせてあげることも見守るとも言えます。自分のことを自分で見守るからこそ、他人のことも自分と同じように見守りたいと思うものです。
心がやりたいことを感じたままに日々を歩むことができれば、どんなことがあったとしても心の持ち方次第で竟には感謝にまで昇華し心があるということへの幸せを実感できるものです。だからこそはじめに何を心が求めたか、新しいことを行う時に心は何を動機にしたのか、それを絶えず確認することが「初心」というものです。
その初心を維持するのに平常心がありますが、これが心の持ち方の本質なのでしょう。
平常の心こそ初心であり、その初心をいつも平時に維持しているというのは、常に心は原点に定まっていて気分やその時の状況に関係なく出来事に対して心を動かしバランスを取り続けているという感覚のことです。
心は形がないものだからどんなことも受容でき寛容できるものです。地球にいるすべてはまるで自然のように、全てのことを心の赴くままに生きていきたいと願っているのです。
初心を忘れないだけで、自然と同じく心のままに生きていけるように思います。
様々な言い訳を使って心を蔑にせず、どんな状況でも平常心を研鑽していきたいと思います。
師を鑑にして、初心を忘れずに動じない心胆を目指していきたいと思います。