縁を辿っていくというのは法を求める信仰に似ています。
例えば、何かしらの出来事からそれが根本は何につながっているのかということを辿っていくのが縁でもあります。日々の誰かの一言や、ふとしたところで足を運んだ場所で、その意味やその理由を奇跡の感激のままに辿っていくことが縁でもあります。
先日も、中国で偶然に訪問した赤山禅院での邂逅から様々なことを学び直しています。出会いというものは、よく聴き耳を立てては聞えないはずの声を聴くことであり、よく目を凝らしては心でしか観えないものを観ることであり、感覚を研ぎ澄ませては一言一句忘れまいとその意味を深めて直観することを言うのかもしれません。
毎日というものは、様々な出会いに満ちています。
しかし実際は満ちているとしても出会いを出会いにしていないことが多いように思うのです。
自分の出会いたいものとしか出会わないでは、一期一会とは言わないように思うのです。自分の出会いたいと思ったものを優先するのではなく、この出会いは何か、またその出会いは何とつながっているか、まるで計画していない雲水のような旅の妙味を楽しむことで人生の醍醐味と面白さを実感し続けていくようにも思います。
それは如何に謙虚に出来事を深めているか、そして素直に人の話を聴いているかに尽きるようにも思います。そう考えてみると、出会いが人を成長させていくということの本意が理解できるように思います。
つまり人が出会っても出会わないのは学んでいないから、出会っても活かせないのは習っていないから。そうであるならば、ここでの学び習うということは全てのことを感得し敬い承る信仰のように全てのご縁を自らが尊び、それをよくよく内省して気づいた機会を忘れず、さらに自明を掘り出し、前へ前へとご縁を辿る新たな発見の旅を鮮やかに歩んでいくことのように思います。
ご縁に気づくということは、自分に気づくということです。自分に気づくということは出会い気づくということであろうと思います。
出会うことで人は人になっていきます。
出会いは人を人にするだけではなく、人は出会いによって人であるのです。
人であるときが愛そのものであるのです。
だから人はこの世の楽園を楽しみたい、愛したいと願うのでしょう。
出会いの尊さを実感しつつ、また新たな発見を遊び心で楽しんでいきたいと思います。
出愛ある日々に感謝しています。