世阿弥が遺したものに「花鏡」があります。
有名な一文に、「初心忘れるべからず」という言葉があります。
この時の初心は、何か始めたときの心を忘れるなと使われているようですが実際はそうではなく常恒に自分がどのような心でいるのかを忘れてはならないということを書いています。
そこには、こうあります。
「しかれば当流に万能一徳の一句あり。 初心忘るべからず。この句、三ヶ条の口伝あり。是非とも初心忘るべからず。時々の初心忘るべからず。老後の初心忘るべからず。この三、よくよく口伝すべし」.
これにも解釈を様々にする人がいますが、私にとっては花を自分の鑑として自らの芸を究め続けようとした自然から学ぶ姿。その時その時の時代で様々な出来事という風が吹く中で、常にその種(心)を見つめ、その種に花を咲かせていこうとする生き方の姿勢、つまりは世阿弥は生き方そのもののことを記していると私には思えるのです。
生き方まで高まったところで自らを磨くというものは、「実践そのものが人生」、「何も分けないのが人生」「今を遣り切るのが人生」、つまりは『人生こそが稽古そのものである』と定義し「、平常心を忘れずに自然を自らの鑑にして学び続けよ、それを当方の流儀の要とする」とその自らの生死観の思想を伝承したように思うのです。
そして伝承しようとするところにだけこの「初心」と永遠の命があるのです。
世阿弥に父観阿弥が遺した生き方という真心を受け賜る世阿弥の素直な真心、そしてその譲り受けた真心を息子元雅に伝えたいという世阿弥の親心、この世阿弥の「間合」にこそ純粋無垢、清浄無垢な「初心」という言葉がはじめて「為る」のです。
私にも生き方の鑑と呼べるような方が沢山あり、その人を自らの鏡にしながら自分の人生の稽古に励んでいます。師とは、自らを照らす鏡のようでありその鏡を観る時、自らの初心を映し出すのです。何を鑑にして生きるのか、それを花とするのもよし、それを月とするのもよし、それはその各々の美しい心にこそ聴けばいいのです。
有難いご縁はいつも偉大な存在を身近に感じさせてくれます。
私たちは生き方を通して人生を学び、生きざまを通じて一家を確立していくのです。
子どもたちに己の生き方を遺すのは自分の命を全て懸けられるだけの偉大な仕事です。
時事の初心を念じ、その真心を温め育て次世代へと家を発展させていきたいと思います。