自然農に取り組み、漬物をしていく中で腐敗と発酵について学び直しています。
郷里の高菜漬けを実践していると、地域や風土にあわせて色々と工夫してきた先人の智慧を感じる事ばかりです。昨日も、これからの高菜の種を蒔き春が待ち遠しい思いです。
腐敗と発酵については、人間にとって都合が悪いものを腐敗といい良いものを発酵と定義しているようです。人間が中心になって、物事をみればすぐに対立の考え方が出てきます。それは大前提として自分にとってどうかというところから物事を考えてしまっているからです。
しかし実際の腐敗と発酵を深めて観ていると、行っていることは同じく循環の理の中で微生物たちが自分の使命を果たしているということには変わりありません。
つまりは様々ないのちがそれぞれに役割を果たしているのだから全部善い、つまりは最善・至善ということです。この世は、全てが食べて食べられる関係でいのちが助け合っています。言い換えれば、互いのいのちを支え合うために互いに分け合って譲り合って存在しているとも言えるのです。
それを自然の中から見出し、その自然から手ほどきを受けて自然の技術を学びとりそれを活かして自分たちが食べ繋ぐための工夫にしたのがこの発酵腐敗の循環の技術です。
水や、空気や光、風、そして土や塩などを上手に組み合わせてどの状態の時が私たちが食べられるものになるのかを知っているのです。そしてそれは同時に、全ての生きものに対して分け合い譲り合う技術を使っているとも言えるのです。
如何に自分に利益が出ることを周りにも同時に利益を発生させていくか、周りが利益が出ることで如何に自分も利益が出るのか、それをどれだけの全体の広さや深さでやっていくのかに自然の智慧が働いているのです。
常に全体のためにと働くのであれば、常に自らを利他にしていかなけれなりません。言い換えればそれは感謝を土台に恩返しをしていこうとする実践が大前提になければ稼働していかない智慧なのです。
周りをよりよく活かそうとするのは、全てのいのちを活かそうとする心のことです。
心の本体に気づくものだけが、自然の技術を学べます。
心を磨き、心を大切に様々ないのちと共に修養していきたいと思います。