人生というものを考えてみると、せっかく生まれてきたのだから人は何かをしようとします。人は体験を通して自分の役割を知るものだから体験をどのように遣り切るのかで自分のことを知るのです。
例えば、人生には誰かが設けた答えというものは存在しません。その人の答えはその人にしかないからです。なぜなら、答えというものが人生の結果であり、その結果をどう出していくのかはその人の体験こそが真実だからです。
その人の体験が真実だからこそ、その人が遣り切ったのち、それが何であったのかをその人が答えを出すのです。人は何かの教育で答えがあると思い込まされてしまうと、何かの答えを探すために問題の解き方ばかりに意識を攫われてしまいます。
しかし実際に解き方ばかりを考えても、企画倒れで何もしていないまま考えているだけになってしまうことが多いのです。もしくは遣る前に考え過ぎてしまえば、終始無難や問題があまり起きない方法論ばかりが良策であると勘違いしてしまうのです。
本来の挑戦というものは、目的や本質を事前に考えたとしてもそれ以外のことはあまり考えず感じたままに結果を出すために取り組み、その後の余韻でふり返り内省して改善するという流れで取り組むものです。これは体験を重視しているものであり、やってみてもいないのに先に決めたり諦めたりしないということで常に優先していくのは何が起きてもそこに答えを見出すのは自分という実践が存在するからです。
人はつい答えがどこかにあるものだ、誰かが持っているものだと探してしまううちに自分が出す答えを人任せにしたり、どこかの誰かが出してくれる答えを当てにしてしまうようになっているものです。そうすることで、実際の当事者意識や自分で遣り切るという気持ちが停滞していくのです。しかし本来、「答え」という結果とは、自分の人生の中にあるものでその答えを出すのは自分しかないからこそ全てに遣り切った人生でいる必要があるのです。
もしも一度しかない人生だとしたら、誰しも遣りたいことを自分で体験したいと願ったはずです。しかしつい世の中の常識やルールの方が正しいと思い、安逸に次第にそれに合わせて生きる方が楽だとなると遣るという意味さえも勘違いしたくなるのです。本来の遣り切るということは、人生の答えを求め続ける真摯な実践の中にある言葉です。信じているからこそ、体験を遣り切ることができるのです。
そして実際の人生は、自分が体験したことが最も正しいのです。それがどんな人生であれ、自分が遣り切ったのであればそれが答えであり真実なのです。遣りたいことをやらせてあげる、そしてそれを見守るということは、その人が大好きなことをいつまでも大好きでいるために自分を諦めないことに似ているのです。
そのためには心の底から、命を燃やし、全てのことを意味があるとし体験を徹底的に遣り切って答えと向き合い、プロセスを通じて自分の答えを一つ一つ確実に出していくことだと思います。
何でも体験したことが尊いと思えば、失敗もまた貴重な人生そのものになっていきます。遣り切ることを大切に、自分の答えを大切に、見守られている存在に感謝して一度きりの人生と正対していきたいと思います。