法理法則の宇宙

生きているとよく法理や法則だと私たちが思うものがあります。

元々私たちは宇宙自然の一部として生きているのですから、法則や法理というものは気づかずともその中に自分たちもいるということになります。

当たり前すぎて気づかないものですが、どの生きものにもその法則や法理を活用して生きています。植物であっても昆虫であっても、動物もまた星々の循環に至るまで不思議な力を得ては生きているとも言えるのです。

そういうものを自然の中にいれば自然に理解していても、自然から離れていけば何が自然かが分からず自分たちの社会で創った常識を法理や法則などと間違えてしまうことがあるのです。

人間の持つ価値観というものは、その与えられる環境の中で勝手に真実だと勘違いしてしまいます。例えば、私たちの生活する場所や育成された環境、その他の出来事や身近な人間の影響を受けて価値観も決まってしまうのです。

その価値観の中でいくら真実だと思い込んでいても、本来の真実というものはそことは別のところにあるのです。こういうものを実感できる力、直観により大局を掴むことが本来の法理や法則というものなのです。

ではなぜこれが分からないのかといえば、それは生き方にあります。人生というものは目的があってはじめて成り立つものです。その目的に向き合ったことがある人は、生き方というものを考え抜いて覚悟を定めていきます。

よく臨死体験をした人が、法理や法則に目覚めて人生を激変することもそれに似ていてそこで目的を見つめ直すからです。もし自分が明日死ぬとしたらどうするかとすれば、当然今というものにいのちを懸けていくものです。

いのちを懸けるものがあるということもまた法理法則の入り口です。本気かどうかというものも宇宙自然の一部であるからです。この「自分の価値観に左右されないところを持つ」ことで法理法則を深めてみてもいいと思います。

つまり入口はどこからでもよく、価値観以外の真実を直観したのならそれを一生大事にしそれを直向に究めていけばいいように思います。

私には法理法則の「自他一体、自他一如」だけでも十分他の法理法則が観える状態が直観で維持できます。法理法則はまるで空気のように形がないものだから、それを無意識に実感するほどにこちらが生き方を見つめていないと観えないのかもしれません。

日々はかけがえないものだからこそ、二度とない今に集中したいと思います。かんながらの道の御蔭で今との出会いと感謝によって、気づきは次第に清々しく澄まされていきます。

法理法則の宇宙を旅していきたいと思います。