自発的邂逅

理念を自分のものにしていくことや、智慧を自分が活かせるようになるには、体験を通して全てのことを自分の答えでものにしていく必要があります。

勉強というものは、誰か答えを持っていたり正解があるからと教えてもらって教わったらできるわけではありません。教わったことを自ら行動して取り組み、そしてまた疑問が出たものを自問自答し、また習い学びまた教わるということを繰り返しながらもその答えは自分の奥からこれだと思うものを導き出していくしかありません。

引き出すという言葉も、引き出しということもどこから引いてくるかということのたとえです。

この引き出す元は、自分の根源から探し出してくることに似ているのです。

つい人は、常識的な概念の中で誰かに教えてもらわなければ分からないと思ってしまいます。知識偏重型社会にどっぷりつかると知識がないものは教わっていないと分からないという思考回路を持ってしまうものです。

しかし知識がなかった時代、太古の時代などは誰も何かを教えてくれるわけでもなく自然を観ては自分の中で思索し自分の中の答えを導き出すために試行錯誤をして一つ一つを知識にしていったとも言えるのです。

教える事で考えずにできるように便利になりましたが、それでは本来の自分の智慧にまで昇華したわけでもなく、会得してそれをものにしたわけではないのです。

本来の学びというものは、すべて自分の中から導き出してこなければなりません。そして心技体も教わってできるものではなく、すべて自分が自発的になって自分を発掘し錬磨して育てていくしかないのです。

体験がなぜ尊いかといえば、体験することで自分の言葉と自分の頭で哲学することができるからです。誰かに聴いたことを哲学してもそれは単に哲学科の勉強をしたにすぎないからです。

実際の人生は、すべて誰にも教わらずに自分の中の正解と向き合い、真摯に答えを求めようとする実体験で根源のままでいようとする取り組みだと思えるからです。自分の根源が何か、その根源が何を言うのか、その根源が何を学んでほしいのか、その根源の求めるお役目は何か、これは何につながり、何の意味があり、自分がどうしたいのかを常に四六時中自問自答して自明していくのが唯一無二の自分の人生、自発的邂逅だからです。

今一瞬のチャンスを逃さずに一日一生に全部丸ごと体験しようとする意気込みにこそ、自発的な人生があるように思います。計算するのではなく、あることを選ばずに全てのことに全身全霊で答えを自分で導いていくことがさらなる体験を呼び起こすようにも思います。

遣り切ってみるといつも心根の真心に感謝することばかりです。

自発的邂逅を広げていこうと思います。