知識社会というものがあります。
私たちは今、西洋的な考え方によって人間が創りあげた世界を社会と定義して生きています。例えば、知識が多い人を先生と言い、何でも物知りで教えることができる人のことを偉大だと思い込んでいます。
二宮尊徳にある伝承が残っています。弟子に富田高慶という人がいて、大変な知識者だったそうですが念願の二宮尊徳に会った際、尊徳が彼に「大豆という字を書いてみよ」とし、その人が大豆と書いたら「お前の大豆は馬は食うか?」と尋ねました。その後、「俺の大豆は馬も食う」と言いその人は感動して弟子入りしたといいます。
物知りだから偉大なのではなく、自然の循環の道理を覚り、その道理を人間に及ぼしていく導者だからこそ偉大であったのです。自然の中に生きた尊徳だからこそのこの逸話です。
人間は知識というものを得てから、一部の知識がある人こそが価値があるものだと勘違いをはじめました。特に日本の昔は、まだ文字もたいしてなかったころは自然に精通し自然そのものの循環でいのちと渾然一体になって生きていたようです。
それが外来からの理論によって、さも知識がある方が素晴らしいことだとし時の権力者が真理を使って人々を管理したのです。そうしたものが蔓延ってくると、人はそういうものを鵜呑みにして人間の持っている知識が最高であると思い込んでいくのです。
しかし動物から植物、いや、地球宇宙に生きる私たち本来は循環の道理の中でこそいのちを役立てていくことができ、いのちそのものを活かしていくことができるのです。
生きることや活きること、そして活かすことや生きているということは、須らく自然の循環の中にスパンと入ってこそのものなのです。
答えを持つことが素晴らしいのではなく、その人の中にも自然の答えがあることが真に素晴らしいのです。勉強の本来の意味を間違えて自然を征服しようとしても、そのことで苦しむの私達本来のいのちや魂なのです。
人々の魂やいのちを輝かせるのは、もう一度自然に戻してあげることのように思います。天地の間に在る私たちが本来の姿に戻り、そしてそこではじめて言葉を持ち、正しい方へと導いていくことが道師を目指すということだと思います。
むやみに人の師になるな・・・吉田松陰先生の遺訓が骨身に沁みます。
そして二宮尊徳の道歌にまた、感涙を得ます。
「天地の和して一輪福寿草 さくやこの花幾代経るとも」
永続する循環の中から外れない生き方をしていきたいと念じます。常にいのちも魂も、自然と一体になってこそ輝いていきます。先生たちの生きざまから、今の姿勢を正していきたいと思います。
有難うございます。