遣って内省

内省というものがあります。

自分が本来のあるべき姿に対してどうであったという矢印を自らへ向けるものです。その反対は、外責ともいうのかもしれませんが矢印は自分以外のものへと向けるものを言います。

人は内省をしていなければ自信を持つことができません。経験を糧に、その経験が何であったかをふり返り、その意味を味わっていくなかで自分の内面にある自己への深い信頼が具わって来るからです。

逆に自信がないというのは、もしも上手くいかなかったらどうなるだろうとばかりを思い煩い、やらないといけないことをやらないでやるためのことばかりをやろうとしては何もやらないから内省ができず自他を責めては自己を信頼することができなくなるのです。

人はやる前に考えたりするのではなく、やってから思索思想を深めて哲学を持ったり、やってみてからその経験が何になったのか、その体験で何を学んだかと振り返ることで改善になり、その改善の積み重ねこそで自信をつけることができるのです。

今の人は、やる前にやろうとばかりに気合を入れてはやれないというサイクルで停滞することが多いように思います。これは学校の刷り込みもありますが、勉強したら答えがある、答えがあってはじめて勉強をするという考え方に囚われているからかもしれません。

本来、答えなどというものはその人が自らの自覚によって導きだすものだからやっていないのに分かるものなどありません。答えというものが自分だからこそ、やってわかるものなのでしょう。

つまり内省ができないのは、「やってないせい」であり、本来の内省とは「遣って内省」の順序なのです。

常に遣って内省であるかどうかを問うことだと思います。自問自答してもどうしていいか分からないと苦しむのは、それは単に遣らなかったからかということにハッと気づく訓練をすることが善いように思います。それを促す人たちの存在もまた必要のように思います。

なぜか分からないもののすべてはやったら分かるという真実。

人生とは、体験をすることで成長し、経験を積むことで役割を与えられるものなのだから大切なのは迷う前にやってみる事だと思います。迷ったらいけではなく、迷う前にいけというのが本当なのでしょう。

心で浮かんだことを、浮かんだ瞬間に決めるという訓練。

考動一致していくことが、何よりも気合ばかりを使わないでいいコツなのかもしれません。不安は誰にもあるものですし、どうなるか分からない未来など当たり前といえば当たり前です。だからこそ、何から心に浮かんだか、そして次の瞬間にそれを遣らせてあげようと自己を見守ったか、それを支える燃料は内省により充足していくというのが私の考え方です。

遣って内省を生きていきたいと思います。