修養の心得~聴聞の姿勢~

先日、ブログで聴聞について書きましたがその実践は一生かかるものです。

人は聞いても聴こえず、聞けども聴かずという状態になっていくものです。いくら耳を澄ませてと自分が思っていても、その実践は素直の実践と同じほどに難しいことだからです。

人はなぜ聴聞できないかと言えば、そこに疑心があるからです。自分のことを信じられず、周囲の人のことを信じられないようになれば自ずから聴聞することはできません。そもそも自信というものは、「自ずから信」という意味であろうと私は定義していて、どれだけ全てのことを信じているか、そしてそのことに対して素直であるかということを言うように思っています。

つまりは、信じることができない状態では聴聞もまた難しいと思うのです。人は素直になってくると、他人の話を澄んだ心で聴くことができるようになるものです。素直でなくなってくると、聞かなくなるだけではなく聞こうともできなくなり自分だけの殻に閉じこもって疑心暗鬼に陥って常に矢印を自分以外へ向けてしまいます。

人は信じることができるかどうかが何よりも聴く姿勢を育てていくのです。

頑固というものも、自分の考えだけが正しいと思い込み、相手の話をちゃんと聴くことができず、相手ばかりに自分の意見を要求するようになっていることをいいます。理由は、不信や不安から傲慢とか不遜とに陥っている場合がほとんどでしょうがそういう様々な状況がまた聴聞の実践ができないことになっているように思います。

聴聞できないと孤独になるものです。人はご縁を感じたりつながりのなかに居る時にこそ感謝を忘れず幸福を味わい安心の境地に達しているものです。だからこそ自分の姿勢が常に素直であるか、そして謙虚であろうとしたか、そういう自分であろうと常に実践しようとすることが具体的な仕組みの一つ、「聴聞」というのです。

親鸞の教行信証にはこう書かれています。

衆生、仏願の生機本末を聞いて疑心あることなし」

これは意訳ですが、釈尊の本願に悟ればそこには信があるだけである。これは、根っこの心から人々を救いたいという願いこそに有難い教えが入っているということなのではないかと私には思えます。

そして親鸞はこう続きます。

「きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。また、きくといふは、信心をあらはす御のりなり」

これもまた意訳ですが聴くというのは、その釈尊の本願と同じ心でいることを聞くというのです。またその聴聞は自分の信じる姿勢を示す法そのものなのです。これは松下幸之助の素直の百段と同じ話であろうと思います。

どれだけ自分が素直に信じているか、自他を丸ごと信じて取り組んでいるかを内省するときと同じことがあっているのです。

この聴聞というのは、なかなかできるものではないのは自分が素直で謙虚でなければできないことだからです。天地の理法や自然の法則、その他、真心の道などもすべては自分の心に自ずから信じることができてはじめて触れることができるのでしょう。それは言い換えれば、当たり前などないのだということを自覚し感謝に目覚めることだろうと私には思えます。

自分は本当にまだまだ修行が必要だと痛感しますが、それもまた善いことなのだと信じて今日を昨日よりも有難く学び機会を大事に精進していきたいと思います。