善き師友

昨日、久しぶりにドイツ視察にいった仲間との同窓会がありました。

先生を囲んで、その後、学んだことをどのように活かしているか、どのように過ごしているか、近況がどうなっているなどを確認していくのです。

共に同じ先生に学びながら、同じ時機を共にすることを同窓といいます。その期間、楽しかったことをいつまでも忘れずにいられるのは曾ての学んだ歓びをいつまでも忘れてないでいる幸せを味わうのです。

日々は大変なことばかりが起きますが、時折共に学びを志した仲間がいる存在を味わえばこの今も我々は大切なことを学んでいる日々であることを再認識することができるのです。

人生はあっという間ですが、時折に学び合った朋たちの様子を拝見できるということは出会いの素晴らしさを再実感することになり、活かされていることの有難さを再覚認できます。

その中で、ふと自然に感じたことがありました。

私はよく身の周りに素晴らしい人たちが多いと言われることがあります。善い人たちに恵まれて素晴らしい仲間が居て羨ましいとも言われます。それがなぜかということに「そうか」と気づいたのです。

それは善き師、善き先生がいるからではないかと私は思います。

つい若気の至りからか少し上手くいくと自分がすごくなったような気になったり、自分が何か特別なものであるかのような錯覚を起こすものです。それに様々な自我や自尊心から傲慢さというものは自分の知らずしらずににょきにょきと助長していくものです。そうすることで我儘になり孤立したり、性格が直せなかったりすると、やはり善き朋や善き仲間との出会いも少なくなっていくように思うのです。

しかし善き師、善き先生が居る御蔭でそういう自分の傲慢な気持ちも抑制してくださいます。また抑制した後に、省みればその徳、その人格から自分の理想としている姿を学び直し、精進していこうといった謙虚な気持ちになっていくのです。

徳の高い人を師とし先生とするならば、自ずから自分の徳が磨かれるのです。

私の師も先生も私にいつも「責任」というものは何かを教えてくださいます。リーダーであるということがどういうことか、人を導くということが如何なるものかを無言の説法で語りかけて下さいます。

その一つ一つを、朋にする友や仲間と語り合い、戒めつつも歩んでいくことではじめて善きご縁を結んでいくことができるように思うのです。師や先生というものの存在は、学びにおいてはとても大切な仕組みであろうと私は思います。

どのような人を先生にするか、どのような人を師にするか、それは徳を磨くために自分を戒められるような人、調子にのせないような人が善いのかもしれませんね。

どちらにしても、それもまた一期一会の尊いご縁。

そのご縁の尊さに気づいたならばそのご縁を一期一会に大切にしていくことこそが真に自らを磨き学び続ける姿勢につながっているように感じました。

同窓会は、様々なことを再確認することができる素晴らしい機会であり仕組みです。学び合っていく道の日々に、謙虚さから離れることがないように善き師友と共にしていこうと思います。