体験の尊さ

私達すべての生きものは、人間を含め体験しないと分からないようにできています。

それは一度しかない自分の人生の中で、何を自分がしたいのか、何をしたがったのか、そういうものはすべて体験を積み重ねてみてはじめて自明していくものだからです。

この積み重ねていくというのは、言い換えれば時間を遡っていくもののように思います。つまりは体験を内省することで、その内省の意味を辿っていくかのようなものです。

過去から未来へも、未来から過去へも、今の積み重ねの中に存在するものです。これらの時間軸は自分で勝手につくりだしているもので、自然には今しかありません。そう考えれば体験の中にこそ私たちは生死を超越したところに棲んでいることを実感するということなのではないかと思います。

すべての生きものというものは、そのものの体験を通して学んでいきます。それは自然界では当然のことで、自然の循環に従って自分たちが体験したことを子々孫々へと引き継いでいくのです。今が積み重なっているだけという見方をしてみれば、その時代時代に内省をしてきた分の歴史が在るだけということです。

これを思う時、体験しないということがどのようなことかを考えてみるのです。

体験というものの尊さというものは、内省することによってはじめて得られるように思います。なぜなら、内省することが正しく体験をすることだからです。

毎回毎回の出来事はその瞬間瞬間に確かに意味が存在しています。それはマクロからミクロを観るように、ミクロからマクロが観えてくるように、一部と全体というものは首尾一貫してつながっているからです。その「つながっている体験」というものをどのように捉えているか、どのように味わっているかで人生全体というものが顕現しているように思います。

少しこんなことを書くと哲学のようになるのかもしれませんが、そうではなくそもそも体験こそが人生であるということを改めて実感するということだと思います。体験というものを大事にしていくには、体験しないことよりも体験していく尊さを実感する方を優先していなければなりません。そのためにも内省を続けて積み重ねていくことで、そのつながりを切れないようにと努力することが必用ではないかと思います。

長くなりましたが、体験も内省も今も、「つながり」の中で用いる言霊ということです。

だからこそつながりが観える人は、生死を超えた今を見つめます。しかしつながりが観えない人ではいつも未来や過去を憂慮するばかりで自分の今が分からなくなってしまいます。怒涛の如く過ぎ去る日々にも流されない平常心を持てるかどうかがより善く歩んだ道の姿なのでしょう。

ですから体験の尊さを忘れはいけません。なぜなら体験してみようと試みること、チャレンジすることが人生を切り開くことなのですから。

体験を勇気づけるゲーテの名文をいくつか紹介します。

「涙とともにパンを食べたことのある者でなければ、人生の本当の味はわからない。」
「つねによい目的を見失わずに努力を続ける限り、最後には必ず救われる。」
「 とにかく、とりかかれば心が燃え上がるし、続けていれば仕事は完成する。」
「 自分を信頼しはじめたその瞬間に、どう生きたらいいのかがわかる。」

体験することで得るものが真の智慧であり、そこに道を歩んだ軌跡が永遠に遺ります。最後にゲーテはこう問いかけます。

「君は本気で生きてるかい?」

取り組みを恐れずに取り組まないことを真に畏れ、前進していきたいと思います。

情熱感謝

何かの物事を成し遂げる際に、他力が入るという言葉があります。

これは遣っていく中で何度も実感し、そのうち他力の方が重要ではないかと感じていくものです。この他力とは、自力を尽くした後の他力のようなもので目には観えない何かの力が働いたことでその物事が為されるということです。

人は全身全霊の情熱を傾けて物事に取り組む時、自分の力を超えた何かによって支えられているのではないかと気づくものです。天が助けたくなってしまうような純真で直向な努力を怠らないことで竟には思ってもいなかったような奇跡に出会い、いつもそこに何か力を貸してくださった存在があったこと、まるで天と一体となったような不思議な感覚を覚えるものです。

自分の力の全力を惜しまず情熱を持って事に当たれば苦しい時ほど助けが入り最期まで遣り切らせていただくのです。その後に、いつも自分の思い通りではなかったけれど思った以上のことが起きていることに気づいては感謝するのです。そういうひとつひとつの感謝が今というものの中に存在していることを知ると、出し惜しみしないという考え方が身に着いてくるように思います。遣り切るというのは同時に遣り切らせていただいたということなのでしょう。

一般的には人間は誰もが失敗したくないものです。特に知性ばかりを評価されてきた生き方だと、他人の目ばかりが気になってしまうのです。何かを努力して乗り越えたことを評価されてきたならば、その人は尽力を出し切ることの方が素晴らしいことを自覚しているのです。

尽力を出す機会をどれだけ得られたかというのが本来の運かもしれません。運を伸ばし運を善くするには、自分の底力を出していく機会をたくさん求めていくようなご縁に出会うことかもしれません。

ご縁を大事にしていく生き方というものは、今を尽力するという生き方です。

二度とない時間、二度とない場所、二度とないこの今にどれだけ本気に向き合っているかという生き方です。情熱もこの今から湧いてくるものですし、自力というものもこの今に正対する心から派生してきます。そう考えてみると、情熱と感謝は常に表裏一体なのかもしれません。

最後に私がとても好きな西行の詩を紹介します。

「なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」

遣り切る生き方というものは、いつもその御蔭様に気づける生き方なのかもしれません。日々を大切に自他に活かされていることの御恩返しをしていきたいと思います。

好好~好奇心の妙~

「好きこそものの上手なれ」という諺があります。

これはどんなことであれ、その人が好きであればすぐに上達していくという意味で使われます。好きなことは、やらされるのではなく自らがやっているのだから発達が善くなり上達するということでしょう。

しかし一般的に人は元来は怠惰にできていますから、好きなことは何もやらないことだといって好きなことが次第になくなっていくようにも思います。

ここで好きになるということがどのようなことかを深めてみます。

好きになるというのは、自分で好きで居続けるための努力がつきものであろうと思います。好きになるコツを掴んでいる人は、努力していることに気づかないだけで必ず努力は行われています。つまりは好きというのは好きでいることをやっているから好きになるのです。

この好きというのは、何もしないから好きなのではないということです。毎日毎日、四六時中、好きなことを維持するにはその陰で大変な努力が動いています。上達というのは、欠かさない練習によって得るものですからやったらやらなかったりではなく常にやっているから好きでいられるのです。

それはまるで養分を吸い上げていく植物のように、もしくは生きものたちの呼吸のように已めることはない努力なのです。これらの努力をしていくことが苦にならない、つまりは自分が達したい目標に向かって取り組んでいることが楽しくなっていてはじめて好きだと言えるのです。

しかし好きでいるにも好きになるにも、その前に好きになることを知らないのではいつまでも好きではない、否、「嫌い」だと決めつけて努力を避けてしまうから辛くなるとも言えるのです。

確かにどんなことでも自分には嫌なことがほとんどなのが人生なのかもしれません。寒いと外にでたくないとか、朝早いと辛いとか、評価されるのが嫌だとか、考えるとキリがありません。

そんな理由があったにせよ、それを転じて好きにすることが上達するコツであろうと思います。このコツとは、自分の好きなことにしてしまうことを掴んでいるということです。嫌いなことも好きにできるということかもしれません。

例えば、自分にとって興味がないことがあったとします。しかしそれをしなければ目標に達しないことが先人や先達者の声を聴くと必然であることを自明するとします。その場合は、嫌いなことを好きにならなければなりません。ずっと嫌いなままでは上達することがなく、より一層辛く苦しいだけで伸びていかないからです。

それをどのように工夫するか、方法論から入ればそこには自分の好きな分野に置き換えるというやり方もあります。原則論から入れば、習慣になるまで身に着けたかというのもあります。沢山の場数を増やしていくことでその場数にそって心身に沁み渡っていくのです。

好きになるということは、好きになるまで探求するということかもしれません。私の場合は、これも何かの意味があると感じ取ったり、これは何につながっているだろうと掘り下げていくことで次第に楽しくなっていきます。

好奇心という基本技術があるのかもしれません。好奇心を発揮していくためには、自分の好きなことをやって呼び水にするのも方法のひとつかもしれません。今の遣らないといけないものの中に、別のテーマを持つというやり方もあります。

どちらにしても、努力するということなくして好きになることは絶対にありません。しかしその努力を主体的にするのか受身でやるのかでは努力の本質が変わってしまうのかもしれません。努力の本質とは、生活習慣を変えることだと思います。言い換えれば、自らの意識を変えて心身を新しく入れ替えていくことだと思います。

好きになってはじめて、仕事も向こうから近づいてきますし、真実も、目標も、道理も歩み寄ってきてくださいます。それは人でも物でも、出来事もでもすべて同じく、好きだからこそ相手は自分を好きになって下さるし、物も出来事も好きでいてくださるのです。

相思相愛になるには、それだけ自分から素直に好きだと言えることだろうと思います。これだけ好かれている自分が素直に好きといえないのは、もったいないことだと思います。自分が一番愛する心をもって好きでいることに純真無垢でいることや純粋清浄でいることが好きになるコツでしょう。

そしてその好好を楽しめているとき、理念、志、そして使命を味わっているように思います。すべての今を全てのことを好きでいる自分でありたいと思います。

発達を邪魔しない

発達というものを考える時、それは自ら発する、そして達するということはすぐに自明します。発達とは他人からさせられるものではなく、自ら発することであるからです。

昨日、保育環境セミナーで藤森平司先生の講演で情緒の安定の話がありました。
ここで少しご紹介します。

『「保育指針には情緒の安定のことが書かれています。そこには一つ目は「欲求を満たしてあげること」人は意欲がないと発達していかないからです。つまりいくら指摘しようがどうが本人が自ら「やりたい、したい」と思わなければ発達しないからです。二つ目は「共感」してあげること。その子のしたいことに共感してあげること。相手に何かを言う前に、まず共感してあげないといけません。三つ目は自分に「自信」を持たせること。よくできたことに褒めること、自信を持たせること。四つ目は「リズム」を持たせること。一日のリズムを身に着けさせてあげることです。」』

とありました。

これも発達というものの側面を捉えてお話してくださっていることがわかります。

発達というものは誰かによってさせられることでもなければ、自分以外のものができるものではありません。そういうものを如何に邪魔しないかということが、周囲の見守りには重要だということではないか私は思います。

『子どもの発達するのを邪魔しない』というのはカグヤのミマモリングポリシーコピーですがこれはここから考案されているものです。

人は相手を自分の思い通りにしたいと思うものです。そういうことがその人が自然に育つことを邪魔してその人らしくすることができなくなるのです。自然界でいっても、そのものがそのもののように育つのであってこちらが育てたわけではありません。

言い換えれば、そのものが育つのを邪魔しないように手入れしたということではないかと思います。この手の入れ方は着かず離れずに、そのものを観ては、その発達するのを見守るのですがこれがとても難しいことなのです。それは自然の中で生きる叡智を人が体得していることに似ています。

この邪魔しないというのは、そのものを尊重するということですがつい自分の我が入ることでそれを邪魔してしまいます。真心を入れるのではなく我を入れればすぐに邪魔になるのです。

御互いに大事にし合うことで御互いを見守りあうことができるのですがどうしても偏り一方的になってしまうものです。まず相手を大事にすることは過保護過干渉をすることではなく、相手の全人格を肯定し相手のいのちを大事にすることなのだと思います。その中で如何に自分も大事にしていくかということです。常に自然共生の法理がそこに働きます。

しかしそれがすぐにできないのはそこには私たちが今まで育ってきた環境の中での思い込みや先入観、今では様々なことが刷り込まれています。この一つ一つを取り除くために、発達を信じるという意識を新たに身体に沁みこませていくことが発達を邪魔しないための自戒になるのかもしれません。

どのような手を尽くしていけばいいか、悩みは深まるばかりですが初心に帰り見守る保育の道を学び続けていきたいと思います。

時々の初心~人の成長~

ソフトの名前の変更にあたり、色々な意味を考え直しています。

能の大成者の世阿弥に「時々の初心、忘れるべからず」という言葉があります。これは、出会いというもので置き換えて考えてみるとその本質が理解できるように思います。

出会いというものは、それまでの出会いがあります。ある出会いから、人は様々なことを学んでいきます。それは職業との出会い、出来事との出会い、人との出会い、場所との出会い、様々な出会いを生きています。そうして出会いから何かを学び、そして卒業したら次の出会いを学ぶのです。

同じ人と一緒にいても、御互いが出会ったことから学び、卒業すれば御互いに次の学びに進んでいくのです。御互いがずっと一緒にいられるというのは、御互いが努力精進するのを已めず常に切磋琢磨し学び合って成長進化し続けている証だともいえるようにも思います。

先ほどの時々の初心というものは、一つの物事を乗り越えるときそこでかつての初心に別れを告げて新しい初心に出会うという意味ではないかと私には思えるのです。

昨日のセミナーの情報交換会でも、見守る保育ということを学ぶと1年目も5年目も10年目でもその時の見守る保育に出会うということ、つまりは道というものには終わりがなく常に初心を新しくしていくことが大事だということをお話ししました。

これは温故知新と同じ意味であり、常に新しくしていかなければ初心を忘れてしまうのだということなのです。

ソフトを新しくするというのも、それまでの初心を卒業しもう一度、新たな初心に出会うという意味ではないかと思えるのです。それは単に新しく販売するとか、数字を出すとかという意味ではなく、自分を新たにして新しく次の初心を達するために真摯にゼロから学び直すということであろうと思います。

それは説明を単に変えるなどという次元の話ではなく、そもそもの新しい初心を築くことのように思うのです。またはじめから行うのかということを人は嫌がるものかもしれませんが、それでは初心に出会えません。

初心に出会い続けるのは、「もう一度新しく出会いたい」と願う心からはじまるのかもしれません。

人は長年共に過ごしていても、そのうち次第に落ち着いてくるものです。しかし進化成長を已まない人と共に過ごすなら自分自身も同様に新しくしていかなければなりません。そこには過去の出会いとは別に新しい出会いへと刷新していく努力がいるように思います。人は成長し合える人と出会いたいと心で願っています、だからこそ自分も一緒に成長できる関係でありたいから常に自己改心の努力をするのです。

つまり挑戦するというのは、新しくするということです。そしてそれが時々の初心ということであるのです。日々は真剣勝負です、ややもすると昔の学びの方が楽なのでそこに依存してしまいますが過去は過去、それをすでに習得したのならスパッと卒業して次の学びへと駒を進めることが進化成長の法理です。

同じソフトをやるにも、まったく異なる新たな意識に変えて最初からやり直していこうと思います。バージョンアップをやめてから4年目に入って、ようやく新たなバージョンアップに行き着きました。また次回もその時が来るのでしょうが、伴に理念の大切な道具と歩める日々を継承し歩めることを心から有難く思います。

しかしいつの時代も道具が変わるのではなく、変わるのは道具を用いる人の方だと心を定め気を引き締めて初心を学びこんでいこうと思います。

新たな出会いと別れに心から感謝しています。

個から全体へ

昨日、ある園での研修の中で個から全体への話をしました。そもそも全体から個へというのと個から全体へというものは何かということを深めてみます。

私たち人類は集団を形成してから国家というものを創りあげてきました。国家というものは集団を統治するという考え方を持ち、権力によって個を抑制して国家の利益を優先させてその中で生きているともいえます。

当たり前すぎて考えなくなっていますが、国民というのはその国家の中に存在する民ということです。その中で暮らしていくためには、国家のルールに沿って私たちは統治されているともいえます。個が勝手なことをしては、国家は治まることがないから全体から個への教育を受けてきたとも言えるように思います。

なので、明治維新などのときなど国家が入れ替わるときは個がそれぞれに自由な発想を持ち国家を揺るがせて国を換えてしまったのです。本来は国家が変わるときは、革命などが行われますが私たちの国の歴史では聖徳太子の時代からそれを尊ばないという思想が根付いていました。

個から全体へという発想というものは、「和をもって貴しとなす」という理念に由って語られています。個というものは、一人一人の主体性のことを意味しています。権力による統治の中での個ではなく、個の一人一人が主体的に協力して国家運営をするときまさにそこにより善い一家ができあがるという考え方のことです。

与えられた仕事を受け身にやらされている中でやるのではなく、自分には何ができる、自分にしかできないことは何かと主体的に自らが働きかけて役割分担していくことこそが本来の集団の持つ本質的な意味なのです。本来の社會というものは、人というものは協働して協力しあっていたから自然の中で逞しく親しみ生き続けてきたものであろうと思います。

それがいつ頃からか、権力の統治の中で過ごしていれば生き残れると考えてしまうようになったのでしょう。本来の個が死んで、集団を優先するというのは本末転倒であろうと私には思えます。個が生きて、個を優先するというのはその人らしさを存分に発揮することで多様性を認める神代から夢みた理想の一家を実現するということです。

それは祖神が長年、幸せに暮らしてきた生き方を真似ることなのです。

個を発揮するというのは、個を見守ることがあってはじめて実現します。それは権力による統治ではなく、和をもって善治したといってもいいのかもしれません。

そしてそのためには、総力であったかということが大切なように思います。一人一人が誰も怠らず必死に努力し一生懸命に全体のために尽くしているか、国家に依存するのではなく、国家に貢献しようとしたかということです。

個から全体という言葉には、八百万の神々を畏れ慎み生きていくという智慧が入っています。引き続き、テーマに持ち実践していこうと思います。

古来からの学び方

一般的には人は最初の仕事を学ぶとき、知識から入る人と体から入る人がいます。器用な人は知識から入りますが不器用な人は体から入るようにも思います。しかし本来は両方必要なことで知識も体もいるように思います。

考動ができる人というのは、心に浮かんだことをすぐに形にしていくために頭と同時に手足も動いているものです。学ぶというのは決して頭だけではできることではなく、心と体が一体になったときにはじめて沁み込んでいくように思います。

自分に沁みこませていくような学び方、慣れ親しんでいくような学び方をしてきた人が少ないのは知識編重型の教育を受けてきたからかもしれません。もしくはやらされてきたから知識を掘り下げて自分のものにし智慧にまで昇華するということをやろうとしなかったのかもしれません。

ヤル気を育てるということがどれだけ大切な事か、この歳になってみてそれをはっきりと自覚するようになってきました。自らが常にヤル気をどれだけ育て続けてきたか、その歴史の重み、体験の質量が心と体にはもっとも大切なことなのでしょう。何をするにも努力から入れないのでは何事も為し遂げることはないのです。

人を真に導くということは、その人のヤル気をどう見守っていくのかということかもしれません。宮大工の棟梁西岡常一さんの「口伝の重み」(日本経済新聞社)でこういう話が紹介されていました。

『校長は、上武豊太郎といった。私たちが直接話を聞くのは、修身の時間である。こんな話をされた。「君たちは、農業経済学というものを習うてるやろ。そこには「最小の労力をもって、最大の結果を得る」それが原則や、と書いてある。しかし・・・」と言い、「我々、日本の”農人”はそうであってはならない。自分ひとりの働きで、何人の人を養えるか。これが根本や」農の基本は金儲けや効率ではないというのだ。そのあと「しかし」と続け、「試験のときは、こういうことを書くな。零点になるから。」なるほど、農人とはそうあるべきだと、感じ入ったものである。__背骨を入れられた。と今でも思っている。』

戦後の教育では、また巷のニュースでも経済の原理ばかりが優先され如何に効率よくラクをして成果を出すかばかりを詰め込まれると本来の大切なことが忘れさられていることが多いように思います。

大量生産大量消費の中で、如何に労働をするのかということを教えられ、本来の労働の価値、作業ではなく仕事という価値を学ばないで大人になってしまうと経済の歯車にだけなろうとしてしまうのかもしれません。

農一つを学ぶにも、本で書いていることはごくわずかで実際は農地に出て観ては上手くいかないことばかりと正対します。土や草や虫、そして気候を学ぶのは決して本ではできず試行錯誤しながら、大袈裟に言えば七転八倒しながら心して現場で学ぶしかないのです。それが知識を入れて知識を削除したということでしょう、言い換えれば「モノになっていく」ということです。

そうして自分が繰り返し努力することで根気もまた育っていくのです。

これらのヤル気というものは、本来のあり方の方を大切にし続けるということでしょう。そして学び方も、ヤル気を育て続けるために知識を入れてはそれを削除するために体験するという学び方、そして体験したことを掘り下げてそれを本物の知識にしていくという学び方になっていくはずです。

まずはその人のヤル気を育てていたのがかつての教育(古来からの学び方)だったのかもしれません。

人は自ら学ぶ力があり、自らがヤル気を出して取り組む時、自然に知識も智慧も体得もできるように思います。素の自分を如何に直すか、その素の中に何を据えているかが、長い人生においてとても大切なことのように思います。

経済効率を優先すれば時間の使い方もまた経済効率を優先になるのでしょう。非経済的であったとしても、そのヤル気が育つのならばその人に合わせて見守っていってあげることが思いやりのように思えてなりません。初歩の基本を間違えてしまったら、その後は全部間違いになる怖さがあるように思います。初歩の基本は的を外してはならないのです。

本来の子どもたちが望んでいること、発達に合わせてどのように学び合いの環境を発展させていくのか、そこには互いのヤル気を尊重することからなのかもしれません。戦後に操作された今の教え方と学び方を古道に照らして修正していきたいと思います。

一期一会を大切に、これからも何事も同時であることにこだわっていきたいと思います。

口伝

宮大工棟梁の西岡常一さんの著書「口伝の重み」(日本経済新聞社)には、技法というものが如何なるものかということが書き記しています。

先祖代々の重みを、受け継ぐということがどのようなことであるのか、その生き方や生きざまを拝観していると心に染み入るものがあります。

姿勢とか、考え方とか、今の自分に照らすとちゃんとやらなければという激励を戴いている気がしています。その中で、代々、西岡家棟梁が受け継がれた家訓を祖父から伝えられる場面があります。

正座して、父と一緒に聴いたとあり、これが祖父からの最期の教えだったと言います。受け継ぐ側も承る側も、そのような大切なことを最期にするというのは清々しく感じます。これを思う時、私が教えるということが安易ではないか、心して教えていたのかと思うと恥ずかしい思いがし、本来の心というものは教えにもあるのだと痛感いたしました。

その口伝ではこうあります。

「仏法を知らずして堂塔伽藍を論ずべからず」
「天神地祇を拝さずして宮を口にすべからず」
「法隆寺大工は太子の本流たる誇りをもて」
「伽藍造営には四神相応の地を選べ」
「堂塔の建立には木を買わず山を買え」
「堂塔の木組みは木の癖組み」
「木の癖組みは工人等の心組み」
「人の非を責める前に自分の不徳を思いをいたせ」
「百工あれば百念あり一つに統ぶるが匠長が器量なり」
「一つに止めるの器量なきは謹みおそれ匠長の座を去れ」

これら一つ一つは、いつ頃からあったのかもわかっていないそうです。しかし、その一つ一つは先祖がそれぞれの人生を生き切る中で生涯をかけて艱難辛苦の泥沼の中から咲いた蓮の花のような叡智であろうと思います。

文章に書けばすぐに書けますし、読めばすぐに理解はできますが、その重みを理解することなとはできません。それを口伝で伝え、家訓とするのにはそれ相応の理由があり、先祖たちが失敗を積み重ねて乗り越えてきたなかで遺したものであろうとも思うのです。

震災で、津波に関する石碑のことなども同じことを繰り返さないようにと子々孫々への思いやりをもって先祖が様々なことを伝承してくださっています。神話もまた、先祖が私たちに語りかけてくるのもどのような国を造れば善いのか、そしてどのように暮らしていけばよいのかを教え導いてくださっているものです。

それを受け賜る側の姿勢として、今の自分はどうであろうかと猛省する気持ちがします。そして、先ほどの口伝の続きにはこう書かれています。

「諸処の技法は一日にして成らず祖神達の徳恵なり」

全ての技術とは、必ず一朝一夕になるものではない、長い時間をかけて猛練習猛特訓の上で築いてきたものであるということを諭してくださっています。決してできないからと諦めるのではなく、その上で何をすべきか、どのように真剣に猛稽古に打ち込むかといった祖神たちの見守りを感じるのです。

口伝とはその重みを感じる側がいて受け取る側がいるのかもしれません。子ども達のことを思えば、伝承していくことの大切さを改めなければと決意に満ちます。真摯に一つ一つを古道に照らし学びとっていきたいと思います。

体得会得の努力

人が大切なことを覚えるのには、自分で体得会得するのが一番です。

しかしそれを実際に遣ろうとしない人が増えてきているようにも思います。なぜ体得するのが善いのかと言えば、それは忘れないからです。他人から教えられたことは、いくらメモに書いてもノートに残しても覚えられるようなものではありません。

それを暗記としてはあれかと思い出しはしても、実際の現場で役に立つための智慧にはなりません。何度も何度も自分なりに挑戦してみては、教えてくださった師や先輩、または上司のように自分もできてはじめてそれが自分のものになったとも言えるのです。

宮大工棟梁西岡常一さんの「口伝の重み」(日本経済新聞社)にその学び方の姿勢について色々と書かれていてとても共感できます。

そこにはこのような主旨のことが書かれていました。職人の世界では、手取り足取りの指導などはしないものです。その教えには、「体で覚える。優れた仕事を見て、それを盗む」これを基本だとしています。そして「口より先に手」と、まずは自らの手で掴みとれという心構えを沁みこませます。理屈であれこれというのはうまくいかない。それぞれが、自分で体に仕事をしみこませるしかない。何かを伝えていくのも、そうしたやり方になる。それだけに「教わる方も、教える方も必死。」だったとのことです。

それだけカタチにしていくということは、口先や言葉ではできないということを自らの体験から知覚しているのでしょう。口伝というものの本質は、言葉ではなく心を汲みとれということでしょう。そして心組みをして心構えこころざし、心得、心の糧、心の全てを受け継ぐということなのかもしれません。

表面上の仕事をやったとしてもそれは本来の志事ではありません。

自分で考えて考えて考え抜いて、自分で遣って遣り抜いて遣り切ってこそ、はじめて教えた側も教える側も「必死」「本気」でやったということになるのでしょう。

今はそのような努力を避けて、できそうなところだけを選んでいる人たちがたくさんいます。心を通じ合わせなくて学べるものなど本来は一切なく、小手先の技術を学のではなく、本物の技術を学んでこそ伝承ができるように思います。

技術の基本とは、「心を入れる」ことに他なりません。そして基本の技術を学ぶために、必ず通過すべきことは「心を入れ変える」ことからはじまります。

自分の心が入っていなかったことを恥じて、もう一度心を入れかえて基本中の基本からやり直そうとする覚悟、そしてその基本から逃げずに何年もかけてコツコツと学び直す忍耐、師からの教えを頭で聞くのではなく心で聴く、その上で少しでも近づこうと努力精進を怠らないことこそが根本になっていくようにも思うのです。

当たり前のことを忘れてしまうのは、口でばかり教え、耳でばかり聞いて、頭で分かったことばかりを繰り返しているだけで何もしていないからです。口は励まし導くために使い、相手のことを真摯に聴いて、心で共感していくことの方が育成していくには価値があるように思います。

口伝が家訓のことであり、その家訓を口伝するためには先師の達するために行った努力の全てを心して行うという意味です。伝える側も承る側もまさに必死の正対があってこそ、はじめて口伝は成り立つように思います。

基本とは何か、技術とは何か、まだまだ深めてみたいと思います。

円満両全~ご縁の真理~

人間は教えているようで教えられていて、助けているようで助けられているものです。

これはとても不思議な真理です。

一見、自分が相手のためにと動いているのですが、その実、深く内省してみたら自分のために動いていることになっているのは過ぎた後にじっくりとふり返ってみたら次第に理解できるものだと思います。例えば、ある人に大切なことを伝えていたら同時にそれは自分に伝えられたものではないかと鏡のように自分に返ってくるような体験をした人は多いのではないかと思います。

つまりは、自他というものはお互いに結び関係しあっているものだからこそその結ばれている関係において相手の存在を自分だとし、自分が相手だと深く洞察していさえいれば何かの教科書がなくても自ずから真理が明らかになっていくのです。

昨日の一日をふり返ってみても、自らが動き相手の立場を思いやり動いてみるとその時は自分が相手に何かを教え導くことをしていたとしても、実際はそうさせていただいたのは自分の方ではないかと感謝に帰るのです。

これらの気づきというものは、御蔭様といった日本の言霊にあるように自分がやってあげたのではなく、させていただけたという考え方のことです。また相手の御蔭、何か偉大な見守りの恩影を投影しているという意味になってもいるのです。

つまり人は相手がいることではじめて自分が活かされるということです。もしも自分にとって都合の善い世界に住まえたとしても、もしそれがたった一人であったなら大変な苦しみを味わうものです。

人は相手がいるから一生涯を学べ、人は相手の御蔭で本当の自分、その人生を知覚し味わっていくことができるのです。

これらを一方的に、教える側と教えられる側で分かれてしまうことほど虚しいものはありません。人間というものは、常にこの今、この瞬間にも何かの教えが入っているはずと繰り返し内省し、その内省して気づいたものに感謝し、御恩返しをしていくことではじめて尊い縁を活かしていけるように思います。

やってあげているようでやってもらっているのは自分、見守っているようで見守られているのは自分、どちらかだけではなくて、常に円満両全であるのがこの世の人と人との間のつながりの真理であろうと思います。

それを気づかせなくなるのも、教えから遠ざかるのも自分だけの自分といった自我欲を優先してしまうからでしょう。相手を信じる真心に自分を信じる思いやりで接していくことや、もしもこの人が自分だったならと親愛の心で接するならばそこにだけ本物の教えがあることを知り、丸ごと感激感謝できるように思います。

人は一人では学べず、必ず相手があるから学べるのです。それが学問の道理、学び合いということの意味でしょう。だからこそ人との出会いがあることが何よりも有難いのです。

一日一日は色々な人たちと関わり、沢山のお話をしていくものですがその一つ一つが自分に教えられたものを見落としてはいないかとしっかりふり返っていきたいと思います。