いのちを運ぶ道具~シンプルの価値~

昨日、社内で協力して石臼を使って小麦を挽きました。

小麦も自然農で育ったもので感慨深く、大切にいのちをいただくことができました。この小麦は一部は種蒔き用にし、一部は調理して米飴を足してクッキーを焼きました。

その味も、最初の一つ目は食べてみると舌先では分からない味にびっくりします。しかし二つ目からはその深い味わい、そして「いのち」の入った感覚が美味しさを引き出してきます。味には舌先三寸の味と、丸ごと全身全霊での味があるように思います。

この一つのクッキーを焼くまでにもたくさんの人たちの手とたくさんの時間と、たくさんの自然の恩恵を受けたことを実感して食べてみると当たり前ではないことを改めて実感するのです。かけた時間が自然に全身全霊の直観を揺さぶり起こすのが本物の素材の味です。

人間は、時間という「いのち」を生きています。
そして時間をかけた「いのち」が分かるようにもできているのです。

食べるということの本質に、その手をかけられたものを感じるという意味もまたあるように感じた機会になりました。だからこそ先祖が連綿と心を伝え練り上げたそのシンプルな道具は、その「いのち」を壊さないように、なくさないようにと運ぶように作られたものなのでしょう。

石臼ひとつから、先祖の魂や未来への伝承の仕組みが観得てきました。

私達の暮らしと祭りごとが如何なるものであったか、自然と共生し何を大切に人々は「いのち」を受け継いできたか、それを感じると心から敬服せずにはおれません。

もう一度、先祖の遺していただいていた伝承を必ず探し当て、永遠に生きていく子どもたちへとその真心を譲り渡していけるように真摯に実践し学び直していきたいと思います。