事と為すには必ず技術というものがあります。そして技術には全て基本というものがあります。これを基本の技術という言い方をしてみますがこれが必用なことは一般的には周知の事実ですがこれがなぜ必要なのかを深めてみます。
基本というのは読んで字の如く、その基となっている根本のことです。そして技術とは、その基になるところを身に着けるために業を積んでその技術によって常に確固たる土台を確立しなければなりません。
建築には基礎や基盤というものがあります。ここがしっかりすることではじめて土台が座るのです。有名な建築に法隆寺があります。大和飛鳥時代から今までの約1300年間、数々の天災に対してびくともせずに今でも普遍的に維持しているのにはその土台にとても重要な価値があるからであると言われます。
特に薬師寺東塔などは、高さ約32m、総重量120万キログラムもある法隆寺五重塔が1300年以上も沈むことなく建っていたのはその技術に基礎づくりがあるからです。その基壇がただ土を盛られたものではなくて、地面を固い粘土層の地山まで掘り下げて、その上に良質の粘土を突き固め、更にその上に砂をおいて突き固めるというのを繰り返して地上から1.5mの高さまでに作り上げられた基壇だからであったと言います。(宮大工、西岡常一氏「木に学べ」より)
実はこれと基本の技術は同じように思えてなりません。
どこまでの基盤を持たせるのか、それによって強度は変わっていくのです。最初の基盤ができていないのに、建物を立てればすぐに壊れるもの崩れやすいものになってしまうかもしれません。
だからこそ昔の宮大工は、長い目で全てを見通し、自然に叶っているかどうかをよく確かめながら大切なものを建てていく援助を謙虚に行っていたように思います。
それがまず基本にあって、そしてそのための技術が必用であるように思います。これを建てた宮大工はどのような技術を持っていたのかと思うのです。
思想というものがいくら先にあったとしても、その思想だけ学んでいても現場に立てば具体的に問題を解決できる技術がなければ何を立てることも、何を救うことなどできません。
一人で現場に立つならば、そのための技術をまず身に着ける必要があるのです。そしてその技術とはまず基本の基盤づくりからやらなければならないのです。上から建つ建物などあるはずはなく、土に学び、木に学び、自然に学ぶという全てのことを地味に行ったから技術は具わるのです。
そこはまるで土を掘り、そこに粘土を入れて、固めてから砂を敷くかのように、地味なことを地道に積み上げていき土台ができるまでは耐え忍んででも学ばなければなりません。指導者というものは、指導する際にそこを決して間違わないようにしなければならないように思うのです。
まずは基盤づくりができているか、その基本が習得できているか、そこまでは応用は教えてはならないのです。応用というものは、思想に近いものであり、その思想は基盤の上に乗っかるものであり基盤とは目には見えない土の中にあるものだからそこは見えないけれど在るのだということを本人が自らの体験で身に着けるまでじっくりと見守る必要があると思うのです。
人格形成というものも、そういう基盤づくりの時にこそ練り上がっていくことのように思います。
頭も心もフル稼働で、血と汗と涙を流しつつ、我武者羅に歩んだ日々の中で大切な技術をいただいたことを思いだしました。そういう体験で基本の技術は修まっていくのです。やはり自立というものには、心技体の調和が必要でそこには決して根性論ではなく、単なる理想論ではなく、現場に自ずから自然に独り立ちできるような基本の技術の必要性をまず自覚しそれを常に説いていきたいと思います。