当たり前 元土

以前、ブログで大人びてくるというのは世渡りがうまくなるということを書いたように思います。

例えば、考えるということ一つでも、当たり前のことが観えなくなるのも世の中に合わせていく方が楽だからと選択したことでそうなっていくのです。そしてこの当たり前ということが分からなくなるから、問題が観えなくなっていくとも言えます。それは「常識的には」という名のものであったり、「一般的には」という名ものであったりしますが、そう割り切ってそこは語り合おうとはせずに話はその当たり前を飛ばした応用の方法論を学んだ知識人たちのノウハウばかりに依存してしまうのも自分自身がこの「当たり前」が分からなくなるからです。

真理やシンプルなものを、自分のものにするにはこの元の当たり前のところからやり直さなければ応用などはできはしないはずなのです。当たり前のことができてから応用というのは、万物の基本の技術だからです。

まずこの「当たり前」に気づくというものは、素朴な疑問を持つことだとも言えます。子どもはみんな不思議がりますが、あれはまだ世の中に合わせず自分の問いを持っているからです。それが大人になればメンドクサイから考えるのを避けようとして大人になるのです。

これを逆さにするには一般的には、そんなことを考えても意味がないと人々が仕分けるような問題をいちいち自分が考え続けているということに似ています。世の中がこうなっているのだから、別にそれでいいではないかと言いだすときはすでに当たり前のことを見失っているともいえるからです。これはとても苦しいことかもしれませんが、それだけ考えることを避けるように生きているから本質と急に言われても分からないのです。

また言い換えれば世の中の常識に迎合するというのは、自分で意味を考えなくなるということです。

こうなっているのだからと諦めてしまえば、当たり前であるはずの「これは変だ」という発想を持つことができなくなります。言い換えれば、これは問題だということに気づかなくなるのです。つまりは問題が分からない人になっているのです。与えられた問題を解く人と、自ら問題を解く人とでは天地の開きがあるように私には思います。

世の中をそうやって洞察すると人間はとてもおかしなことばかりをしているものです。

少しまわりを見渡していても、世の中に合わせるための方法論ばかりに満ち溢れているともいえます。例えば、食糧に化学薬品を入れることも、時間を道具にあわせて人間があくせくしていることも、パソコンを打ちながら仕事をしたと思っていることも、言いだしたらキリがないですが、この自分がおかしなことをしているということが気づけるかというものも問題を発掘する力の一つであろうと思います。

例えば、物事を考える時に土や水、光や音というものから考え始める人たちは当たり前のことが分かっているということです。この当たり前というのは、本質が観えるということです。

常に物事には本質があり、それを維持しようとすれば特異なところにばかり目を向ける前に何が元かと考え抜いたものを実践していくことのように思います。

それは当たり前すぎて世の中で上手に生きている人たちには見えないことなのかもしれませんが敢えてそこに取り組むことが根本治療につながることだと思います。医の本質とは、土から見直すということであろうと私は思います。

元というもの、それは土がもっとも当たり前の傍にいるのだから、この元土というものをもう一度、自分なりに深めていこうと思います。