気候変動を感じていると、本来のあり方というものを見つめる機会が増えてきます。
人間は、自然を征服できると思うように傲慢になってきたのは科学技術の進展と関係が深いように思います。科学で証明できることが、さも真実なのだと思い込まされる教育を受けるからかもしれません。
誰かが自然から抜粋して具体的に発明した一部の技術を応用してつくった機械や、その知識が至上の価値であると思い込まされるからかもしれません。
科学で証明できないものは全部宗教や呪術の類だと、分別されるところから人間以上の存在を敬わず畏れないようになってきたのかもしれません。西洋ではエコロジーとか言いますが、何をもってエコロジーだというのか甚だ狂った考え方のように思います。自然という絶妙微細なものを人間がコントロールすることなど不可能なことです。
しかし今の人類は勘違いをさせられそもそも自然というものや宇宙というものは、解明されているかのように語られますがその実は少しも解明できてはいません。否、科学では解明できず証明できない何かがあることをいつも究極には辿りつきます。その時だけ科学では証明できないものがあるとはじめて受け容れているのです。こんなことでどうするのだろうかと疑問に思います。
本来、自然など征服できるはずもなく、また科学も万能ではありません。その思想そのものが歪んでいるのに気付かないというのはなぜだろうと感じるのです。本来は、敵わないものであることを当然とし、その自然に敬意を払い、自らを従え天地に融和しつつ、慎ましく生きてきたからここまで生き残ってこれたのが我々人類のように思います。
今では、科学で証明されないものは否定するかのように伝統文化や職人たちの技術、伝承されたものが消失してきています。ここに大変な危機感を覚えますし、未来の子どもたちのことを思えば義憤が激しく沸き立ちます。
今まで数千年も廃れてこなかった生きる智慧を全部捨てていくのです。これがどれだけ危険なことであろうかと実感するのです。実は、滅ぶというのは今まで大切にしてきたことを手放すということなのかもしれません。伝承されてきたものを入れかえるということは、かつてそこまで経験してきたものを捨てるということになるのかもしれません。
だからこそ、先人たちは家訓を遺し、先祖代々で得た経験を様々なカタチにして私たちに譲ってきてくださったのでしょう。その譲られたものを有難いと学んだのがかつての私たちの謙虚な直毘霊だったのでしょう。
もう一度、様々なことを省みる必要性を実感します。そこにはまず科学で証明できないものでも信じられるくらいは刷り込みを取り除かなければならぬように思えてなりません。自然の直観や野生の勘、血の絆など、古来からの叡智を現代へ持ち込むことかもしれません。
それが生存本能の本質というものです。
時代は過渡期に入っているからこそ誘惑や落とし穴に嵌らないように細心の注意を払い、神代から連綿と結ばれてきた初心を省み、正しく伝承していく自分へと心を高め、魂を優先する実践を積み重ねていこうと思います。