昨日、ある園での研修の中で個から全体への話をしました。そもそも全体から個へというのと個から全体へというものは何かということを深めてみます。
私たち人類は集団を形成してから国家というものを創りあげてきました。国家というものは集団を統治するという考え方を持ち、権力によって個を抑制して国家の利益を優先させてその中で生きているともいえます。
当たり前すぎて考えなくなっていますが、国民というのはその国家の中に存在する民ということです。その中で暮らしていくためには、国家のルールに沿って私たちは統治されているともいえます。個が勝手なことをしては、国家は治まることがないから全体から個への教育を受けてきたとも言えるように思います。
なので、明治維新などのときなど国家が入れ替わるときは個がそれぞれに自由な発想を持ち国家を揺るがせて国を換えてしまったのです。本来は国家が変わるときは、革命などが行われますが私たちの国の歴史では聖徳太子の時代からそれを尊ばないという思想が根付いていました。
個から全体へという発想というものは、「和をもって貴しとなす」という理念に由って語られています。個というものは、一人一人の主体性のことを意味しています。権力による統治の中での個ではなく、個の一人一人が主体的に協力して国家運営をするときまさにそこにより善い一家ができあがるという考え方のことです。
与えられた仕事を受け身にやらされている中でやるのではなく、自分には何ができる、自分にしかできないことは何かと主体的に自らが働きかけて役割分担していくことこそが本来の集団の持つ本質的な意味なのです。本来の社會というものは、人というものは協働して協力しあっていたから自然の中で逞しく親しみ生き続けてきたものであろうと思います。
それがいつ頃からか、権力の統治の中で過ごしていれば生き残れると考えてしまうようになったのでしょう。本来の個が死んで、集団を優先するというのは本末転倒であろうと私には思えます。個が生きて、個を優先するというのはその人らしさを存分に発揮することで多様性を認める神代から夢みた理想の一家を実現するということです。
それは祖神が長年、幸せに暮らしてきた生き方を真似ることなのです。
個を発揮するというのは、個を見守ることがあってはじめて実現します。それは権力による統治ではなく、和をもって善治したといってもいいのかもしれません。
そしてそのためには、総力であったかということが大切なように思います。一人一人が誰も怠らず必死に努力し一生懸命に全体のために尽くしているか、国家に依存するのではなく、国家に貢献しようとしたかということです。
個から全体という言葉には、八百万の神々を畏れ慎み生きていくという智慧が入っています。引き続き、テーマに持ち実践していこうと思います。