発達を邪魔しない

発達というものを考える時、それは自ら発する、そして達するということはすぐに自明します。発達とは他人からさせられるものではなく、自ら発することであるからです。

昨日、保育環境セミナーで藤森平司先生の講演で情緒の安定の話がありました。
ここで少しご紹介します。

『「保育指針には情緒の安定のことが書かれています。そこには一つ目は「欲求を満たしてあげること」人は意欲がないと発達していかないからです。つまりいくら指摘しようがどうが本人が自ら「やりたい、したい」と思わなければ発達しないからです。二つ目は「共感」してあげること。その子のしたいことに共感してあげること。相手に何かを言う前に、まず共感してあげないといけません。三つ目は自分に「自信」を持たせること。よくできたことに褒めること、自信を持たせること。四つ目は「リズム」を持たせること。一日のリズムを身に着けさせてあげることです。」』

とありました。

これも発達というものの側面を捉えてお話してくださっていることがわかります。

発達というものは誰かによってさせられることでもなければ、自分以外のものができるものではありません。そういうものを如何に邪魔しないかということが、周囲の見守りには重要だということではないか私は思います。

『子どもの発達するのを邪魔しない』というのはカグヤのミマモリングポリシーコピーですがこれはここから考案されているものです。

人は相手を自分の思い通りにしたいと思うものです。そういうことがその人が自然に育つことを邪魔してその人らしくすることができなくなるのです。自然界でいっても、そのものがそのもののように育つのであってこちらが育てたわけではありません。

言い換えれば、そのものが育つのを邪魔しないように手入れしたということではないかと思います。この手の入れ方は着かず離れずに、そのものを観ては、その発達するのを見守るのですがこれがとても難しいことなのです。それは自然の中で生きる叡智を人が体得していることに似ています。

この邪魔しないというのは、そのものを尊重するということですがつい自分の我が入ることでそれを邪魔してしまいます。真心を入れるのではなく我を入れればすぐに邪魔になるのです。

御互いに大事にし合うことで御互いを見守りあうことができるのですがどうしても偏り一方的になってしまうものです。まず相手を大事にすることは過保護過干渉をすることではなく、相手の全人格を肯定し相手のいのちを大事にすることなのだと思います。その中で如何に自分も大事にしていくかということです。常に自然共生の法理がそこに働きます。

しかしそれがすぐにできないのはそこには私たちが今まで育ってきた環境の中での思い込みや先入観、今では様々なことが刷り込まれています。この一つ一つを取り除くために、発達を信じるという意識を新たに身体に沁みこませていくことが発達を邪魔しないための自戒になるのかもしれません。

どのような手を尽くしていけばいいか、悩みは深まるばかりですが初心に帰り見守る保育の道を学び続けていきたいと思います。