何かの物事を成し遂げる際に、他力が入るという言葉があります。
これは遣っていく中で何度も実感し、そのうち他力の方が重要ではないかと感じていくものです。この他力とは、自力を尽くした後の他力のようなもので目には観えない何かの力が働いたことでその物事が為されるということです。
人は全身全霊の情熱を傾けて物事に取り組む時、自分の力を超えた何かによって支えられているのではないかと気づくものです。天が助けたくなってしまうような純真で直向な努力を怠らないことで竟には思ってもいなかったような奇跡に出会い、いつもそこに何か力を貸してくださった存在があったこと、まるで天と一体となったような不思議な感覚を覚えるものです。
自分の力の全力を惜しまず情熱を持って事に当たれば苦しい時ほど助けが入り最期まで遣り切らせていただくのです。その後に、いつも自分の思い通りではなかったけれど思った以上のことが起きていることに気づいては感謝するのです。そういうひとつひとつの感謝が今というものの中に存在していることを知ると、出し惜しみしないという考え方が身に着いてくるように思います。遣り切るというのは同時に遣り切らせていただいたということなのでしょう。
一般的には人間は誰もが失敗したくないものです。特に知性ばかりを評価されてきた生き方だと、他人の目ばかりが気になってしまうのです。何かを努力して乗り越えたことを評価されてきたならば、その人は尽力を出し切ることの方が素晴らしいことを自覚しているのです。
尽力を出す機会をどれだけ得られたかというのが本来の運かもしれません。運を伸ばし運を善くするには、自分の底力を出していく機会をたくさん求めていくようなご縁に出会うことかもしれません。
ご縁を大事にしていく生き方というものは、今を尽力するという生き方です。
二度とない時間、二度とない場所、二度とないこの今にどれだけ本気に向き合っているかという生き方です。情熱もこの今から湧いてくるものですし、自力というものもこの今に正対する心から派生してきます。そう考えてみると、情熱と感謝は常に表裏一体なのかもしれません。
最後に私がとても好きな西行の詩を紹介します。
「なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」
遣り切る生き方というものは、いつもその御蔭様に気づける生き方なのかもしれません。日々を大切に自他に活かされていることの御恩返しをしていきたいと思います。