成長とは何か~真の智慧~

先日、ある園の理念の確認の中で強く逞しくあるということについて教えていただきました。

強く逞しくという意味を教えて下さった方は、戦中戦後の厳しい環境の中で、実に多くの苦労をなさって今に至ります。そしてこの強く逞しくというのは自立を顕していますが同時に苦労というものの本質を示しています。

そもそもこの苦労というのは、肉体的にも精神的にも何かと苦しい思いをして懸命に何かを為し遂げたという意味や、それだけ沢山の方々のお世話になり厄介になって助けていただいたという意味で使われます。御苦労人という言葉があるように、過去に様々な悲しく辛いことを体験し苦労をすることで人生の機微や他人様の有難さを知り人情に通じている人のことをいったりするのもこの「苦労」という意味です。

「若い時の苦労は買ってでもせよ」という格言があります。これは若い時に苦労をしたことは後のちとても役に立ちますよという意味です。

今の時代は物に溢れ、何もかもが豊かに満たされ苦労することはなくなってきてすべてにおいて甘やかされた環境の中で生きているともいえます。若い人が苦労をする場所がどれだけあるかといえばほとんどなく、苦労を体験できるところも減っているように思います。

一昔前までは、ないものづくしのなかで便利ではない社会の中で、思い通りにはいかないことで沢山の苦労をする環境がありました。しかし今は、そういう苦労はさせたくないという人たちとそういう苦労はしたくないという人たちの思いばかりで自ら進んで苦労をしようとする気持ちなど持たなくなっているように思います。

この苦労というものは人を強く逞しくし、苦労がないと人は弱く貧しくなり元気を失っていくように思います。人は成長するというのは、この苦労をするということであり、苦労をしないで成長するということはないのです。

苦労がある人の持つ人生の背景というものはとても奥深いものがあります。表には出さないけれど、その人の人格や風格、人間性や言霊、生きざまにはその背景というものがのるのです。その人生背景に苦労がある人は、人間的に豊かであり洗練され含蓄があるものです。しかしそういうものを持たないで知識だけもってもやはり何か薄っぺらなものを感じてしまうのです。

そう考えてみたら、この苦労するというのは今のような時代「買ってでもせよ」ということが大切なのではないかと私は思います。この買ってでもというのは「自分から体験を克って出よ」ということではないかと思います。

つまりは自ら大変だと分かっていても、志や使命に根差すものを持つのなら主体的に行動し失敗を恐れずに挑戦せよという意味であろうと思うのです。もちろん、挑戦すればするほどに失敗もあり辛い体験、他人様からの評価批判などに晒されてしまいます。

しかしそこを耐え忍び、辛く苦しい中でも労を厭わずに信念をもって努力精進していく中ではじめて貴重で豊かな尊い人生体験をすることができるのです。

成長というものは痛みを伴うのは有難いことであり、体験し苦労をせよという意味なのでしょう。また逆に成長を止めるということは苦労することを避けてしまい痛みを怖がって何も挑戦しないことを言うのでしょう。自立というのは、強く逞しく生きていくことなのかもしれません。

だからこそ成長というものは、そこに「強く逞しく生きよ」という独立自尊する人生の強いメッセージを実感します。このメッセージとは、「どのような環境下であってもその気持ちを忘れてはならぬ、齢を経て、人生を振り返ったときに最も大切だったのは『苦労する』であった」と教えて下さる方の言葉こそが真の智慧ではないかを自明するのです。

齢を経るというのは、成長の証が残るということ。そこに真心を持って苦労を伝えて下さる方々がいることに心からの感謝と共に、自らも成長していきたい、苦労していきたいと心が激励されるのです。

一期一会の出会いの御蔭様で苦労という人生の豊かさが真の豊かさであること、真の智慧とは苦労の中にあることを学べ気づかせていただきました。

強く逞しく、挫けずへこたれない大和魂を次世代のために奮起し実践していこうと思います。

有難うございます。