正直というものを考える時、自分に正直かどうかという基準があります。
今、使われている正直というのは外部からその人へ正直であるかといった他から自へと向けた正しいかどうかという基準で動いているように思います。しかし、そこには何らかの他から操作主義が入り込んでいます。そういう正直さというのは、他人から言われる素直さと同じようにそれは本質的には正直でもなければ素直でもないのです。
本来の正直さや素直さというのものは、自から自へが本来の姿であり、自分自身の心に嘘偽りがないか、自分自身が決めたことに対してどれだけ本気であるかどうかのときに使われるものです。そこには世間一般や大衆集団のモノサシの中の平均であることを求めるのではなく、本来の人生の目的に対してどれだけ正直に実践しているか、素直に学んでいるかということになるはずなのです。
他人の目を気にし、自分自身を偽るようになっている状態で正直というものはわかるはずもないように思います。自分を大切にするということの本意はそこにあるのです。
思い返せばこれは学校教育などでは分かりやすいのですが、学校では学校の基準でその人を推し量り、何らかの評価を存在させます。頭が良く優等生であることがいいという評価があれば、そうではない人たちはそこに向かって自分を確認していくということになるのです。そこでは学校の方針、ほとんどが受験による知識偏重型の評価が用いられています。
しかし実際はどうなっているかといえば、自分を生きていくには人生をより善く生きぬいていかなければならず、そこには自分の中で決めた自分らしい評価、つまりは自分の人生の目的をどうするかというものと正面から向き合わなければなりません。
それは言い換えれば、自分がどう生きたいのか、どう生きるのか、そういうものを自らが持ち、その大義を中心にして自らで判断していかなければならないのです。そう考えてみると、正直であるということは自分に正直であるということで誰かに対して正直であるという意味ではないのです。
この自分に正直であるというのは、その正直な自分のままに他に対しても正直でいるということになります。だからこそ正直な人は他に正直を伝えることができますし、他の正直に対して自分を正直にしていることもできるようになっています。
人生というものを共に分かち合い、自分の正義を貫く人たちが同じ土俵で語り合えるようになる幸せもまた得られるようになります。人が人として共に生きていくことの素晴らしさ、そしていのちといのちの邂逅、真心の通じ愛もまたこの自他に正直であることで実現するのです。
人生の目的というものに向き合い、自分が何のために生きるのか、どう生きるのか、そういうものと真摯に向き合い実践していく中で、日々の正義が積み重なりそこではじめて正直評価を維持していけるように思います。
子どもの正直な姿は、その子がやりたいことを実現しているときに顕現しています。そしてそれを実現するのを見守っているとき、こちらにも正直さがわかる自分があるのです。
自他に正直というのは、周りの目を気にして周りの評価に合わせようとして、本来の人生の目的を忘れずに自分を誤魔化さないということです。
そして正義には思いやりがつきものですから、正直さを大事にすることの難しさを理解することで自他をよく思いやり、真心をもって自他に尽力することが正直の定義であろうと思います。
今は周りをみたら正直者がバカを見るなどと諦めている若い人が多いそうですが、それは自分らしさが肯定できず周りからもそのように扱われてきて自他を誤魔化しているからそう見えるのでしょう。
そこを勇気をだして先人たちや実践者から、自分らしさを学び自分を変えていく努力をしてみることでたった一人、たった一度の自分の人生の価値に気づけるように思います。
私が日本人らしさに正直を書いたのは、日本人の祖神たちの足跡をには、その正直に生きた証がたくさん残っているからです
自他一体も正直も、すべてそこには一生懸命に真摯に自分を活かし、同時に他人を活かしたという互いに人生を活かし切ったその人らしさの証がのこっています。どれだけ今に精を出して全てを活かそう、自分を活かし切ろう、すべてを善いものへと転じていこうとする活動の心命魂を実感するのです。
祖先たちの求めたところを求めて精活改善を実践し、着実に歩みを進めていきたいと思います。