回訓

先日から、家訓や遺訓というものを深めていますがその中にはその人そのものの人生で得た大切な戒めが回訓となって記されています。

人生の中で、何をしているときが最も危険な時か、またどういう状態の時が自分が偏るのかを自覚しそれを自らが忘れないように繰り返し見直し心を見つめているように思います。

人生の中で、得られる教訓とはほとんどが失敗を通じて得られます。大きな悔いを転じては、それを情熱に変えて次の実践を深めていくということ。思い返せば、私の今も苦い体験や辛かった体験があってその御蔭で強くしていただいたように思います。

定期的に驕りや慢心というものが自分の我によって現れそのことから失敗をし、その失敗から学びまた我を修めていくという中で道を歩んでいくようにも思います。素直でなればその我も観えないのでしょうが、失敗の御蔭でその我と向き合うことができ、それを戒める自分の言霊とも出会うように思います。

人生の中で、失敗のない人生などありませんし失敗がないということそのものが失敗であろうとも思います。失敗から学んだことが自他の人生の御役に立つのだから、思い切って勇気を出して挑戦し努力することの価値を自らで示していくのが子どものモデルになることなのでしょう。

現在は、園訓や家訓、遺訓などの仕事に携わることで新しいことを学び直しています。その中で共通するものが観えてきましたが、その全ては我と真我に関係することです。真我を目覚めさせるために、日頃の信念を醸成する回訓を持つことはとても大切なことのように感じました。

徳川家康の遺訓と言われるものを紹介します。

「人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くが如し
急ぐべからず 不自由を 常と思えば 不足なし
心に望みおこらば 困窮し足る時を思い出すべし
堪忍は無事長久の基 怒りを敵と思え
勝つことばかり知りて 負くるを知らざれば 害その身に至る
己を責めて 人を責むるな
及ばざるは 過ぎたるに 勝れり」

意訳すれば、(人間の一生は重い荷を背負って遠い道を往くようなものである、だからこそ決して急いではならない。そもそも自分の思い通りにはいかないのだと思えば、不満もないだろう。心に欲が呑まれそうなときには、苦しく辛かったころのことを思せばいい。耐え忍ぶことは安らかに長くすごしていく基礎になる、怒りこそ本当の敵だと思いなさい。勝つことばかりを求めては負けを避けるようでは、必ずその弊害は自分自身に出てくる。自分に矢印を向けても人に矢印は向けるな。少し足りないと思える方が、遣り過ぎていることよりも勝っているのだから。)となります。

謙虚に生きていくことの大切さを述べていますが、矛盾を耐え忍び歩んできた背景を感じてその生き方から学べることは沢山あります。

その人その人の我というものは等しく同じですが、対処となると異なっていますからそれぞれに自らを修める言葉に出会うことが大切なのかもしれません。

私の場合はかんながらや真心、自然になるかもしれませんが有難いお仕事をさせていただいていることに感謝しつつ、日々に回訓を歩んでいきたいと思います。